【男達の黄昏・・そして今(20)】
季節は梅雨に入っていました。その後特に夕陽丘5丁目には変わった事は何も起きていません。梅雨の晴れ間、山岡哲は息子さんの運転で奥さんを乗せて四国松山へと出掛けていきました。真っ白いサラシに尺二寸の聖観音像をくるんで、自分の膝の上に赤子を抱くように置いています。松山に住む恩師のお宅を訪問したのはその日の午後でした。先生は自宅療養とかで、広いお庭の見える座敷に休んでおられました。
一通りのご挨拶を済ませ、持参の聖観音像を先生に手渡しました。その優しいお顔を眺めておられた先生の目から涙がポタポタと零れ落ちました。先生は人生でこんなに嬉しい事はないと涙ながらに話されました。哲さんの奥さんが床の間にそれを安置して、まわりを拭き浄めました。こうして別の角度から眺めて見ると、霊験灼(あらた)かなお姿に自然に手が合わさります。先生をお世話しているヘルパーさんに後をお頼みして、小一時間ほどいたでしょうか?お元気になられます様にとのご挨拶をして、先生にお別れ致しました。再びお会いする事が出来ないかも知れない、おいとまでした。先生は静かに横になって寝ておられましたが、肩が微かに震えておられる様でした。山岡さんの奥さんも泣いています。哲さんも涙で前がぼんやりとしています。庭の池のそばに咲いている菖蒲の紫色がまるで西方浄土から、み仏がお乗りになって来られた雲の色の様に思えるのでした。
山岡親子はその後、久万高原町を訪ね温泉で一泊します。その高原町にある彫刻工房に足を運んだ山岡哲は、しばらくして大きな『櫟の木』(いちいのき)を抱えて出てきました。お目当ての木を分けてもらえたようです。聖観音像をくるんで来たサラシの布でそれを捲いて車に安置したのです。こうして彼は念願の松山行を無事終えたのでした。たった一泊二日の旅でしたが、彼にとっては充実した心安らぐ旅だったのです。
六月の雨の降りしきるある日の事、山麓保育園は朝から忙しそうでした。それは今日10時頃に『腹話術』の先生が来て下さるからであります。子供達もとっても楽しみにしているようです。園長先生もお部屋の掃除などをしながらてきぱきと指示を出しています。今日の先生は、『川上ノボル』と言う方です。人形の入った大きなカバンを持ってその男性は山道を歩いてやって来ました。何度か立ち止まっては深呼吸をしつつ汗びっしょりです。
『園長先生、来られました。』とアシスタントの谷水洋次がドアーを開けて入って来ました。ここにも一応狭いながらも園長室はあります。書類に目を通していた紺野美佐は、眼鏡をはずして頷きました。子供達はみんな、すでに保育室に集まっています。しばらくして大きなバッグを担いだ男性が玄関に入って来ました。口髭を生やし、黒縁のメガネをかけてグレーの鳥打ち帽を被っている。谷水洋次は、二ヶ月前縫いぐるみを持って訪ねてきた男と同一人物だとはどうしても思えなかったのです。
園長先生が、園長室へ男を案内して挨拶を交わしている。せめてお茶など飲んでもらおうと思ったようでしたが、男性は子供達の声を聞くと、すぐに始めましょうと言ったのです。男は保育室に入ってくると、子供達をじっと見渡すように眺めました。まだ幼児から4才くらいまでの子供が男女合わせて30名ほど座っています。周りには数名のお世話係の女性が立っています。正面真ん中に椅子が一つ、たったそれだけです。男は大きなバッグのジッパーを引いて人形の頭を出しました。『ぼうや、さあ着いたよ。出ておいで』バッグの中に向かって話しかける。『こんな狭いとこ、もういややわ。』と中から「ぼうや」の声がしています。子供達の目が、そのバッグに注がれています。ちょっとびっくりしているようです。
そうこうする内に、「ぼうや」という名前の人形が姿を現しました。慎重70センチ、頭が大きく顔立ちがハッキリとしています。目は瞼が閉じたり、大きく見開いたり出来ます。口はパカッと上下に動いて笑ったり、話をしたりするのです。子供達が最も驚き、喜こんだのは「ぼうや」の首がすっ〜と伸びるところです。キャ〜〜と叫ぶ女の子もいるほどです。「ぼうや」を抱いている男性は、『ノボルちゃん』と呼ばれています。例えばこんなやり取りです。
『さあ、ぼうや』『ああ〜』『ああ〜じゃないでしょ、お友達にご挨拶しましょうね。』『誰が友達やねん』『ほら前にいるみなさんでしょ』『そんなん、今初めておうたとこやんか、知らんわ〜。』『そんなこと言わないの!』『ノボルちゃん、あんたが代わりに挨拶しとけ!』
まあこんな調子で面白おかしく腹話術を演じています。先生方も子供達も大いに笑って、一緒になって楽しい1時間を過ごしました。腹話術の男性はそれが終わると、園長先生のお部屋でお茶をよばれながら話をしています。『失礼ですが、お名前は?』『川上ノボルです』『あれは芸名では?』『ははは・・ずっとそれで通しています。それでは今日はこのへんで失礼します。またクリスマス会にでも。』『園長先生さようなら、また来るで〜〜』バッグの中から「ぼうや」が叫んでいます。そんなこんなで男は人形のバッグを担いで山を下りていきました。谷水洋次は、どことなく寂しそうな足取りだったと後日話したものでした。
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