2011年12月16日金曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・言葉のアーカイブス <標高226m>

im P・Story


ありそでなさそな・なさそでありそな・お話


「花厩舎一馬(はなきゅうしゃかずま)の一日」より

『花厩舎はん、今週の日曜日確か桜花賞でしたな』『ああ、そやもうそんな時期になったんや。そう言えば、仁川競馬場の桜もほぼ満開やったな』『なんかええ馬、おりまへんか?』『最近競馬もとんとご無沙汰でな、名前からしてみんなに競馬の関係者と間違われるのに、ほんま長いこと現場へも行ってないし』

『課長、桜花賞言うたら女馬が走る競争?』とS嬢が訊いてきよった。『そや、牝馬ちゅうんやが、3才になった優秀な女馬ばかりが走る、牝馬クラシック競争の第一弾やな。春の桜の花が牝馬によく似合うレースでもあるな』

『以前私庵主さんの記事で、もうずうっと昔の、タマミとスターウイングの3-3のゾロメ馬券の話読んで桜花賞のファンになってんやんか』『ああ、庵主はんかいな。あの人面白いけど、眉唾(まゆつば)やで。あんまり信用せんこっちゃ』

まあこんな風に、好き放題言うております。その内に花厩
舎課長がこんな事を言い始めた。『大将、新聞おまっか?ちょっと貸してえな。ああおおきに、ここに出馬表(でまひょう)がのっとる。こ〜つと』そう言いながら、メガネを上げてじっと見よった。

この課長さっきも言いましたが、最近の政治、経済のイライラはすべて「ねじれ現象」にあると思っているようで。しょちゅう、なんとかせ〜よ、が口癖なんですわ。谷垣がどうの、小沢がこうの、と横できいてますとこっちが疲れてくるんです。

その花厩舎一馬氏、いやに長い事新聞を穴の開くほど眺めている。そして何やらほっと一呼吸して、『大将、ちめたい生ビール、大ジョッキでちょうだい!』と叫んだ。S嬢はちょっと驚いた風で下から課長の顔を見ている。

『なにか、あったん?』『いや、まあ。明後日の桜花賞の馬見とってん、ほなちょっと気になるのがいてな・・そんで心(しん)の臓(ぞう)が騒ぎよったもんやさかい、ちべたいビールを頼んだんや』

『それ何やのん。教えて〜よ』『言うほどの事もないねけど言おか。笑いなや・・・』『なんで笑いますかいな、おせえて〜』ちょっとS嬢酔ってる感じで、色っぽく出よった。

(明日に続きます)


桜花賞が開催される仁川競馬場周辺
弁天池から甲山を望む Presented by Jun 

2011年12月15日木曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・言葉のアーカイブス <標高225m>

im P・Story


ありそでなさそな・なさそでありそな・お話

Probable  & Improbable  Storyを略してP・imPと言う。これは日常生活の中に、ありそうなお話や、なさそうなお話を取り上げて楽しみましょうとの、たわいもない時間つぶし、暇つぶしの面白空間とでも言いましょうか。
またまた、私がかってに作った新語。それが「P imP・Story 」と言う訳なのです。


しかし「瓢箪から駒」と言う昔の諺にあるが如く、そのStoryが現実化する事もあり、また残念ながら夢物語のように水泡と帰する事もあるわけで。まあ一言で言ってみれば、「・・・なアホな・・」「・・・もうええわ」「堪忍して〜な!」などと「ぼけとつっこみ」の面白さも内包しているのです。まあ取りあえずは覗いてみましょうか。

「花厩舎一馬(はなきゅうしゃかずま)の一日」より

のっけからとってつけたような名前の男。歳は37才、ちょっとメタボ症候群の気配が出てきたようで、毎日会社に出掛ける時も、出来るだけバスには乗らず駅まで徒歩といった生活をしています。

どこに勤めているのかと申しますと、ある大会社のシステム担当課長を仰せつかっています。日々パソコンとにらめっこ、目はかすみ肩は凝り、若干精神的にNot so good.な状態であります。

何がイライラするかというと、新聞、テレビで見る昨今の政治状況や株式市場の不安定な姿にであります。今日もきょうとて、遅くまで残業。それも新年度の始まりで、新入社員が沢山入ってきて何かとその教育に神経を使っているのが実態です。


時計をみると4月11日(金)午後8時です。そろそろ帰ろうかと腰を浮かしかけた時、隣の課にS嬢の姿が見えました。『お遅うまでやってるのやな・・もうええかげんにしいや』『ありがとう、来週からの新入社員研修のレジュメの仕上げで』『そんなん、男の連中にやらさんかい』『でも・・みなさん年初でお忙しそうで』


『どや、帰りに一杯やらへんか?』『課長、お時間宜しいのですか?』『あほ言うな、この歳でまだ独身やで。待つものもおらんし・・・』『じゃあ、ご一緒させてもらおうかしら』

こんな具合になって、会社を出て地下鉄の駅近くの小粋な割烹に座ったちゅうわけなのです。ちょくちょく寄るお店で、なかなかええ魚喰わしよる。中年の主人と、奥さん二人でやっている通(つう)の立ち寄る店とでも言いましょうか、食材の新鮮さが何より取り柄なのです。

『らっしゃい! 花厩舎はん、お久しぶり。おやめずらしい、奥様で?』『大将、なぶんなはんな。同じ会社のS嬢さんです』『割烹、魚澄(うおずみ)の主人です。宜しゅう』

それからは、板さんお任せの、新鮮・キトキトのオンパレード。お酒もゆっくりと、しっかりと飲んで、結構話も弾んで来たとき、ご主人がこんな事を言いよった。

(明日に続きます)


2011年12月14日水曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・今朝のポエム <標高224m>

「星のうた」

いつから星の光が見えなくなってしまったのだろうか

寒い冬の日 母と妹と三人でお風呂屋さんに行った夜

オリオンが瞬いてまるで手にとれそうに潤んでいた

『こら〜・・・待て〜〜!』後ろから怖い声が追いかけてくる

母は私と妹の手をしっかりと握り冬の道を駆けた

その酔っぱらいのどなる声が 頭上のオリオンに吸い込まれていく

息が切れる 涙が散る 母の下駄がカラコロと泣いた

いつから星の光が見えなくなってしまったのだろうか

母の星もかすれて今は消えようとしている

たった一人の春の夜のまぼろし

2011年12月13日火曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・今朝の一押し <標高223m>

【雪の造形】



プロムナードに雪が積もった

陽の光が射してきてこんな形を造っている

自然のなせる技は まことに粋な計らいだ

シャッターを押す間にも崩れゆく心模様

Presented by Jun

2011年12月12日月曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・言葉のアーカイブス <標高222m>

阪和国境、日本最後の仇討ち顛末

広井磐之助は、“仇討ち免許状”を与えられた。仇討ちを許されたとはいっても肝心の相手、棚橋三郎の居所はなにもつかめていなかったのである。彼は焦っていた。知人にその行方の調査を依頼し、自分も身を粉にして思い当たる場所に足を運んだのであった。

文久三年春を過ぎた頃、ある知人から書状が届いた。それは棚橋三郎に似た男が、紀州の加太に潜んでいるらしいという情報であった。待ちに待った、夢にまで見た父の仇(かたき)との遭遇が近づいていたのである。

加太は今でもそうであるが、大河紀ノ川の河口に位置する漁師町であり、友が島へ渡る起点でもある。三郎はその漁師(すなどり)の廃屋のような小屋に住んでいるとの情報であった。

磐之助は険しい山を越え、ようやくのこと加太の村に入った。そして知人の案内を得てその廃屋に近づいて行ったのである。棚橋三郎に似た男は、ボロを纏って身分を隠し、周りの誰とも接触をしていないようにみえた。じっくり観察した結果、確かに自分の探し求めてきた父の仇である事を確信した。磐之助はすぐさま、紀州藩に事分けを話し、改めて正式に仇討ちを申し出たのであった。

紀州藩の考え方はこうである。出来るだけ自藩との関わりのない場所にて実行するのならばやむを得ない。よって棚橋三郎を国払いとする。加えて、仇討ちは境橋付近、和泉側(大坂)にて、すべし・・・。紀州藩の領地外で行う事を通告したのである。

時は文久三年(1863)、六月の二日、陽暦では七月十七日。朝から降っていた雨が上がり、境橋の下の瀬に濁った水が音を立てて流れ下っている。時間は午後一時を少し過ぎている。この橋のたもと、ここは紀州藩と和泉藩とのまさに国境の上。

どちらからとなく歩いて橋の中央に立つ、逃避行に窶(やつ)れた棚橋三郎。父の敵を今こそ討ち、先祖にこの長年の思いを届けたい一心の広井磐之助、始めから結果は歴然としていた。

『父、土佐藩士広井大六の息子広井磐之助である。父の敵、棚橋三郎いざ尋常に勝負せよ!』言うが早いか父の形見、備前長船兼光の鞘をはらった。三郎もそれを受けて刀を抜くも、足が縺れて正眼に構えられない、一瞬日が陰った。その刹那(とき)磐之助の刀がまるでその橋に流れていた風を切るように前に出た。一呼吸止まると見せかけ横一文字に三郎の胴に入って一気に抜き通った。

棚橋三郎は一言も発せず、橋の中央に崩れ落ちた。周りで一部始終を身届けていた知人が三郎の絶命を確認した。ここに仇討ち禁止令が出ていた後に認められた、日本最後の仇討ちは終わったのである。

この仇討ちには、坂本龍馬の力添えと、土佐藩士広井磐之助の決意におされた幕臣、勝燐太郎(後の海舟)の計らいがあったことが記されている。そして磐之助の母がそのあとどのように身を処されたのかを、私は知らない。

(完)

2011年12月11日日曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・言葉のアーカイブス <標高221m>



阪和国境、日本最後の仇討ち顛末

時は流れ、ここ土佐のはりまや橋周辺にも青年藩士の若々しくも力強い声が武徳殿道場より響いている。文久二年にも秋の佇まいが見えだした頃、広井磐之助は母と二人で仏間に坐していた。父のまつられてある仏壇に線香を立てて磐之助はじっと母の顔を見つめた。


父があの世に去ってよりこのかた、母の哀しみの心は晴れることなく、めっきり年をとり窶(やつ)れが増したように思った。それでも武士の妻、けっして人前で泣くようなことはなかった。

『母上、私をこれまでお育て下さりお礼の言葉もございません』磐之助は畳に手を付き、額を畳につけるまで深く拝礼をした。母も同じく我が息子にそうして応えた。いずれその日が来ることを母は胸の中にしまい込んでじっと待っていたのだろう。

『私この度江戸にまいりまする。父上の仇を討つべく“仇討ち免許状”を戴きに行ってまいります』『そうですか、いよいよお前様にご苦労をお掛けする時がまいりましたか』母はそっと袖口でなみだを拭いた。

たったそれだけの母と子の会話であった。それ以上は何もいらなかったのである。その夜母と息子は、二人だけの別れの席を持った。母の差し出す酒を、おし戴くようにして磐之助は受けた。父の席に陰膳が供えられ、同じように酒を注いだ。

先ほどまで黒い雲に隠れていた月が庭の松の梢に大きく照り映えている。それは磐之助の旅立ちを祝うかのようであった。母はその時、胸の中に隠すようにして抱いた小柄(こずか)を、右の手でしっかりと押さえた。しかしその所作を磐之助は気づかなかったのである。

年が明けて文久三年、江戸にて広井磐之助は、無事“仇討ち免許状”を与えられた。文久三年と言えば、五月に長州藩が下関で外国艦隊に砲撃を行っている。七月には薩英戦争勃発、八月には広井磐之助らと同藩の吉村虎太郎らによる天誅組の変が起こり、京都では八月十八日の政変(七卿落ち)が起こっている。

世はまさに風雲急を告げ、若き志士達は政変の真っ直中に維新の魁(さきがけ)として飛び込んでいく日々が続いていた。

(明日に続きます)

2011年12月10日土曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・皆既月食 <標高220m>

 
【皆既月食の一部】



 11.12.10 PM 9:40


11.12.10  PM 9:50


11.12.10  PM 10:20


11.12.10  PM  10:40

このあとは雲が流れてきて写真が上手く撮れなかった