【阪和国境、日本最後の仇討ち顛末】
時は流れ、ここ土佐のはりまや橋周辺にも青年藩士の若々しくも力強い声が武徳殿道場より響いている。文久二年にも秋の佇まいが見えだした頃、広井磐之助は母と二人で仏間に坐していた。父のまつられてある仏壇に線香を立てて磐之助はじっと母の顔を見つめた。
父があの世に去ってよりこのかた、母の哀しみの心は晴れることなく、めっきり年をとり窶(やつ)れが増したように思った。それでも武士の妻、けっして人前で泣くようなことはなかった。
『母上、私をこれまでお育て下さりお礼の言葉もございません』磐之助は畳に手を付き、額を畳につけるまで深く拝礼をした。母も同じく我が息子にそうして応えた。いずれその日が来ることを母は胸の中にしまい込んでじっと待っていたのだろう。
『私この度江戸にまいりまする。父上の仇を討つべく“仇討ち免許状”を戴きに行ってまいります』『そうですか、いよいよお前様にご苦労をお掛けする時がまいりましたか』母はそっと袖口でなみだを拭いた。
先ほどまで黒い雲に隠れていた月が庭の松の梢に大きく照り映えている。それは磐之助の旅立ちを祝うかのようであった。母はその時、胸の中に隠すようにして抱いた小柄(こずか)を、右の手でしっかりと押さえた。しかしその所作を磐之助は気づかなかったのである。
年が明けて文久三年、江戸にて広井磐之助は、無事“仇討ち免許状”を与えられた。文久三年と言えば、五月に長州藩が下関で外国艦隊に砲撃を行っている。七月には薩英戦争勃発、八月には広井磐之助らと同藩の吉村虎太郎らによる天誅組の変が起こり、京都では八月十八日の政変(七卿落ち)が起こっている。
世はまさに風雲急を告げ、若き志士達は政変の真っ直中に維新の魁(さきがけ)として飛び込んでいく日々が続いていた。
(明日に続きます)
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