2014年1月18日土曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・花一輪 恋の笹舟 (標高 847m)




花一輪・恋の笹舟(四十一)

道諦・歩む・八正道・正命(しょうみょう)

柴田寛三と名乗る男がやってきた。かつて順心の父に世話になっていたと言った。順心の父は、九州の熊本の産で中学を出て四国徳島の叔父の家に養子に来ていた。そして母と結婚したのである。その父も徳島を襲った台風の夜、河川の見回りに出たまま帰って来なかったのである。

行方不明であった。その生死は今日までまだ分からないままである。順心の母も3年が経過し、ようやく夫の生死に決着を付ける事にした。そして葬式をあげたのである、それは順心が小学校四年生の頃のことであった。

順心は今も父が死んだことを信じてはいなかった。行方不明のまま今日までどこかで生きているような気がしていた。その父のことを知るという男が現れたのであった。



『阿方様、私は当時村の消防団に入っていたのでっす。貴方のお父さんは分団長をしておられました。私はその部下といいますか、まだ新米で手伝いをしておったのでっす』そこまで言って、柴田寛三はじっと下をむいたきり黙ってしまった。



順心は男の肩に手をおいて言葉を待った。『阿方様、私が貴方のお父さんを死なせてしまったのでっす』と、男は絞り出すように言った。膝を涙が濡らすのを順心はじっと見ていた。



事の顛末はこうであった。数日間豪雨が続いて、田畑も冠水し消防団は夜を徹して、村を流れる川の監視に出動していた。いつどこの堤防が切れるかもわからなかった。一端決壊してしまえば、村も町にも大きな被害が出るのは誰の目にも明らかだった。それだけに村や町の男達は、民間の消防団員もしくは消防署に勤務する者を問わず、まさしく不眠不休の対応に追われていたのであった。



最も雨が強く降った日の夜、順心の父が所属する分団は、決壊しそうな箇所の土嚢積みに出動した。その夜は前が見えないほどの豪雨であったという。柴田寛三も同行していた。土嚢積みがほぼ終ろうとした夜の11時頃、柴田は土嚢を持ち上げて流れの急な場所に置いた。その時踏んでいた足下の土が崩れた。



足を滑らせて流れの中に倒れ込んだ。その声を聞いた阿方分団長が飛び込んで来た。何人かの男も入ってきたが流れは一層早くなっていた。どんどん土が流されていく。その内に、分団長が下流に回り込んだ。そして柴田の体を押し上げるように支えた。

周りの男達が柴田の手を掴み、ごうごうと流れる暗黒の川よりようやく引き上げてくれた。その時、そこには阿方分団長の姿は無かったのである。明け方まで堤防を走り回って探したが、順心の父は見つからなかった。河口周辺まで出ての捜索も無為に終わった。「消防団員一名行方不明」と翌日の「阿波日々新聞」が伝えていた。

★  ★  ☆

【庵主よりの一言】

道諦(どうたい)・歩(あゆ)む
八正道(はっしょうどう)・正命(しょうみょう)

香りは 逆風に勝てず
芙蓉(ふよう)も栴檀(せんだん)の香もしかり
法(おしえ)にしたがい行く人の
香りは 順逆の風を越えて
つねにかぐわし  

(法句経 五四)

2 件のコメント:

  1. わが身を捨てて人を助けるということは何事にも勝る尊い行いですね。東京・新大久保駅の山手線のホームには線路に落ちた人を助けて自らが電車に轢かれて死んだ韓国人の若者の記念のプレートが残っています。いざその場に自分が直面したら、と思った時、とても及びもつかない・想像もできないような尊い行動が出来た人がいるのだなと今更ながら頭が下がります。

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  2. 小川 洋帆 様

    こんばんは。お変わりございませんか? 今夜からまた雪が降りそうですね。明日の朝は注意して歩いて下さい。
    この問題は、その場になってみないと本当の事は判らないでしょう。『人のために命を捨つる、これより大なる愛はなし』とキリストは言われました。自ら人類の罪を背負って、十字架にかかられたのです。この愛の深さをいつも心に留めつつ、生きて行きたいと思っています。
    ではまたお会いする日まで、さようなら。

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