2014年1月23日木曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・花一輪 恋の笹舟 (標高 851m)



花一輪・恋の笹舟(四十二)


道諦・歩む・八正道・正精進(しょうしょうじん)



男の話が終わりかけた頃、時雨が降ってきた。それはまるで順心の胸の内を顕すかのような雨であった。柴田寛三と名乗った男も目を赤くしてじっと俯いていた。順心は男を促して、本堂の御仏の御前に坐した。



じっと目を閉じて経を唱えた。亡き父へのせめてもの供養である。海をこえて、ここ久遠実相寺を訪ねてくれた、郷里の人への感謝の気持ちもこめられていたのだ。



その晩郷里よりの訪問者、柴田寛三は寺に泊まってもらった。最近の美馬の事などを話し合って夜は更けていった。寛三は郷里に帰ったら、阿方家の墓に詣ると言ってくれた。

明くる日、男は早朝に寺を離れた。何度も振り返って、手を振りながら谷間の道を下って行ったのである。

その日から数日経った頃のこと、順心は桜の花が満開になったのを見計らって、寂夢庵を訪ねることにした。春禰尼に是非会いたいと思った。父の最後の様子もわかって気持ちの整理もついたのでそんな話もしておきたかった。

寂夢庵の横に小さな畑がある。その日はなんと春禰尼が野良仕事をしているのだった。順心が伊予に旅をしたとき、尼にと思って買ってきた伊予絣の作務衣を着て畑の土を耕していた。順心が近づいて傍まで来ているのに、気づかないほど精一杯の作業である。

『尼様、順心がまいりました』小さな声で話しかけた。尼はそっと頭を上げて、順心を見た。その顔には汗が流れている。




手ぬぐいで顔を拭いて、小さく会釈をした。その優しくも美しい笑顔に、順心は心穏やかならぬものを感じていた。尼の姿に心が迷ったというのか。とっさに尼の手よりクワを取り、畑の土を耕し始めた。



小一時間も作業をしていたようだ。一通りの仕事が終わった時そこには尼の姿はなかった。尼は少し離れた若草の土手に座って順心を待っていたのである。光りの中に座っている尼の姿は、慈愛深い観世音菩薩のようであった。二人はまるで幼い頃に戻ったかのように笑い合い、茶を飲み、菓子を口にした。



膝の傍に咲く野の花を見て明るく笑う春禰尼の心の中には、過去の忌まわしい記憶はもう残っていないようであった。山の端に朧(おぼろ)の月がかかるまで二人は話し合い、見つめ合っていた。

少し風が吹き出した頃、尼は立ち上がり庵に戻るようだ。順心も腰を伸ばし衣を改めた。その時尼が伏し目がちに言った。『もしよければお立ち寄り下さいませ。なにもありませんが、お雑炊など・・・』二人は月を背にして、寂夢庵の芝垣の中に消えていった。

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