花一輪・恋の笹舟 (四十五)
久遠実相寺のある丹波篠山、虚空蔵山の麓のまわりには雑木林がひろがり、頂上に続く山道は深い森の中に太古の眠りを貪っているかのように鎮まっている。季節はもう夏を過ぎて秋風が吹き出していた。若い頃産婆をしていたという富子婆が寺にやってきた。背負った竹カゴの中には、キュウリやナスビ、大きなナンキンも入っている。本堂の前の大きな敷き石の上に荷物をおろして、手拭いで汗を拭いている。
順心は富子婆に声をかけた。日に焼けた顔に笑顔が浮かんだ。『富子婆、今日はどうしたのじゃ、珍しいではないか』『はい、ご無沙汰致しております。相済まぬことで・・・』『なにも侘びることなどないが、急ぎの用件かな?』
富子婆はちょっと口ごもって唾を飲み込んでから話し出した。『和尚(おっ)さん、手間取らせますな。昨日な、わたい寂夢庵にいてましたん。庵主はんどないかな思うて』『尼様に何か?』『夏の終わり頃から、もうひとつお体がシャンとせんおっしゃって・・・』『ご病気でしたのか?』
『それでどうかと思うてな。ほな、ここのところずっと伏せっておいやすの、ちょっとお窶(やつ)れにならはって』
『どこがお悪いのかの?』『なんでもお胸の具合が・・・とおっしゃって』『医者には看てもろうたのだろうか?』『いいえいな、私はみ仏につかえる身、お医者にはいきません。と小さな声でぽつりと』。富子婆はそう言って顔を伏せた。
順心はその言葉を聞いて、尼の心の内が見て取れるようだった。草深い庵(いおり)に住むものにとって、全てはみ仏の思し召しのまま暮らしたい。それが喩え死の床に伏せっておろうとも、それはそれで良いと心底思っている。それが信仰というものかも知れなかった。
順心といえども、その心と決意とは同じである。自らの信仰の発露である祈りの力で生き続ける。召される時がくれば、喜んでみ仏のお側にかえりたい。そう思って日々を過ごしているのだ。
近い内に寂夢庵を訪ねて見ることにした。富子婆はカゴに入っていた新鮮野菜を寺の厨房におろして帰っていった。順心には尼の苦しそうな顔が浮かんでは又消えていった。
富子婆がやってきてから二日が過ぎた。村の檀家周りを兼ねて、紅葉谷を訪ねることにして朝から準備をしていた。草鞋の紐を結ぼうとしたとき、右足のそれがプツッと切れた。何か不吉な思いがした。順心は強く頭を振って、悪想念を祓おうとしたが駄目だった。紐を結び直すやいなや、勢いよく立ち上がって寺の石段を足早に下りて行った。
0 件のコメント:
コメントを投稿