【流一平氏よりの便り・裏磐梯高原発】
流一平です。裏磐梯よりおじゃまします。
さて今日はこの裏磐梯に生活する者として是非知っておきたい事があるのです。それは今を去ること120年前(当時)の出来事でありました。時は明治21年(1888年)7月15日の朝7時過ぎに遡らねばなりません。
明治21年と言いますと、3/9には梅原龍三郎(画家)が、12/26には菊池寛(作家)が生まれています。また7/19には山岡鉄舟が死去しています。遥かに遠い昔の事であります。
さてこの年の7月15日朝7時過ぎ、ここ磐梯山では何が起こっていたのでしょうか。この日磐梯山麓桧原宿に住まいをしていました式守清太郎(仮名)は、7時半頃に強い地震を感じておりました。
その約15分後、小磐梯の山頂部が水蒸気爆発により破裂したのです。直前の地震は火山性地震の発端だったのです。爆発は20回ほど続き、最後の一発は北に向けて抜けたのです。
これによって、小磐梯の山体は粉々となって北に向かって流れ下りました。この日は快晴で西北西の風が吹いていたようで、火山灰、火山れきは東南東方面に流され、太平洋岸まで達したとの記録が残っています。
式守清太郎は村の役場の仕事をしておりました。山の状況を見た彼は村民を避難させるべく自分の家の事を顧みることなく走り回りました。
彼の住む桧原宿は大量の岩屑流によりせき止められた湖の底に沈んでしまったのです。その時形成されたのが桧原湖、小野川湖、秋元湖などの湖でした。長瀬川の流れが泥流によってせき止められた結果の産物でした。
五色沼をはじめとしてこの裏磐梯には大小300にも及ぶ湖沼が出来たのでした。それは噴火による窪地などに雨水がたまったものでした。皮肉な事にこの大災害が、後の時代に裏磐梯高原の景観を作り上げたのでした。
この磐梯山大噴火による被害は、被害地戸数463戸、埋没破壊戸数約100戸、被害地人口2,891人、死傷人口約518人、死亡者477人であったのです。
式守清太郎は村民救済に走り回る中、力尽きて泥流に飲み込まれてしまったのです。彼も桧原宿と共に湖の底に眠っているのです。今も渇水時には当時の神社の鳥居や参道が現れるのだそうです。
残念ながら当時は、火山に関する研究も初期の段階でした。気象台でも火山観測は実施されていなかったのです。当然地元に住む人々は誰一人として、磐梯山が噴火する事に気づいてはいませんでした。しかし、噴火の数日前から磐梯山周辺に生息する動物たちが避難行動をとっていたという記録も残っているのです。
私、流一平も今から120年前(当時)の磐梯山麓を襲った災害に命を落とされた方々のご冥福を祈りつつ、行く夏を惜しみたいと思います。ではまたお目にかかる日を楽しみに。
(この項、磐梯山噴火記念館だよりを参照しました)
この写真は妙高山の頂上付近を写しています。今ではC級火山として終息の方向にあります。標高2454mの高さを誇っております。5000年前の大噴火で頂上部分が吹き飛んで、現在の平らな形状をしていますが、元は3600m以上の急峻な山容だったようです。庵主
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