【ザアカイという名の男】
ルカによる福音書 19章1〜10
さてルカによる福音書は続けてこのように記しています。『ザアカイは急いで降りてきて、喜んでイエスを迎えた。これを見た人たちは皆つぶやいた。』『あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。』19章6〜7。
ここでこの光景をみていた人々から、イエスを非難するような雰囲気があったと言うのです。非難した人々は神に柔順な人達であり、かれらは自分達こそ神に愛されていると思っていました。それは確かにそうだったのでしょうが、ここで大切な事は、“人間はすべからく神に愛される資格がある。神は人間の過去を問わない”と言う事であります。
当時ユダヤ人にとっては、『アブラハムの子』という誇りがありました。アブラハムとは自分たちの父祖、『信仰の父』という意味です。なんとイエスは、このザアカイですら『その人の子』であると宣言されたのでした。
たとえ人々から蔑まれているザアカイであっても、掛け替えのない、祝福を受けてもいい人間だと認められたのです。続いてルカはかく記しております。
『しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。』『主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。』19章8
そのイエスの深い祝福を受けてザアカイは、今までの様なお金中心の生活を止めますと宣言するのです。そこにはまさに『神様の眼差し』を受けて頭(こうべ)を垂れているザアカイならぬ私どもの姿そのものを投影しています。
ザアカイはイエスにより、『受けとめられた』のでありました。神により受けとめられている事を知った人は、生き方が強く変わっていくのであります。そこには目に見えない導きの手がいつも差し伸べられている事を知っているからに他なりません。
『イエスは言われた。』『今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。』19章9〜10。
こうして徴税人ザアカイは、遠い日に彼の両親が願いを込めて名付けた名前に相応しい歩みを始める事が出来たのであります。神様のお計らいは全てにおいて行き届いております。例えばザアカイが先回りをしてイエスの来られるのを待った、“いちじく桑の木”も、その事のために既に用意されていたのであります。
今もその地には、ザアカイがのぼったという樹齢2000年にも及ぶ“いちじく桑の木”が現存するらしいのです。青年イエスの澄み切った瞳の輝きが甦ってくる伝道の一コマであります。
この尊い聖書の文章を再現させて頂いた光栄に深く感謝致します。またこのご縁を与えて下さった皆様有り難うございました。
今日の考えさせられた言葉・・・『人間は生きてきたように死ぬ。』
大空の雲の彼方より神の声が・・・By Jun
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