2012年2月5日日曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ ・言葉のアーカイブス <標高276m>

連載小説【あり地獄】6

逃げても逃げても追いかけてくる影のように、心の中に黒いカビの様なものがひろがっていく。眠る事も恐ろしいが、現(うつつ)には、見えない相手がヒタヒタとジタジタと迫ってくるようで・・・・。


外を走る車のクラクションの音がかすかに聞こえてくる。宇野はベッドに体を横たえて、まぶたを閉じた。つい1ヶ月前までは平穏な日々が続いていたように思える。あの日たまたま町で昔の知り合いに出会った。そして誘われて入ったクラブが事の始まりのような気がしていたが、実際はもう少し前、ある代議士のパーテー会場で紹介を受けた経営者風の男性と、その会が終わったあと飲みに行った事が発端であったように思う。

どうもその席で、私立校の入試の話が出たような記憶が残っている。当時宇野は教育に関する部会の世話人の一人であった。そんな関係でその時少なからずアドバイスをしたように覚えているが、酒のせいで何を話したのかはほとんど記憶にない。余りよく知らない人と酒の席を共にするのはリスクの高いことである。

そんな事は十二分に分かってはいたのだが、雰囲気と勢いがまともな思考を混乱させたのだ。今から考えれば、周りがチヤホヤするのに一種の傲り、天狗になっていたのは事実であった。そこに隙があった。得手して黒い誘惑はそんな人間の弱さの中に知らず知らずのうちに忍び寄ってくるのだ。

とりとめのない事を考えながら軽い睡眠状態に入っていった。どれほど時間が経ったのだろうか。何者かが迫ってくるのがかすかに感じられた。合い鍵でドアを開けて、暗闇の中を宇野のベッドに近づいてくる。手には先の尖った鋭いナイフを隠し持っている。宇野はそれに気づいているのだが、体が硬直化してどうしても動けない。

男の顔がぼんやりと見える距離まで迫って来ていた。男は手に持ったナイフを振りかざして一気に宇野の胸に振り下ろした。意識が遠のいて行く。不思議と痛覚は感じられない。ただ薄れて行く意識の中でキラキラと火花が散っている。その奥から女性の顔が浮かび上がる。彼女は細い手を差し伸べている。

『さあこっちよ!』と手招きしているような仕草である。その女性はわずか35歳で自分の元を離れていった母の姿であった。『母さん!』と叫んで追いかけようとしたが、母の姿は闇の中に消え去っていく。

う〜ん、と一声上げた時、目が覚めたのである。夢であった。汗がシーツにまで浸み通ってシャツも何もかもが水を被ったようであった。バスルームに入りシャワーを浴びる。心臓がまだ不規則に踊っている。宇野は何気なく自分の胸に目をやった。さっきナイフで刺された辺りを見た。なんとそこには、紛れも無くどす黒い一筋の線が残っているではないか。それはまるで傷を縫合した痕のような、おぞましい形であった。

時間はすでに朝の4時半をまわっている。急いで出立の準備をしてドアーのロックを解除し、静かにノブを回す。少しひらいたドアーの隙間から廊下を見る。誰もいない。時間は朝の5時前である、それは当然であった。エレベーターまで小走りに進む。ボタンを押すが上がって来るまでが特に長く感じられる。扉が開いた、誰も乗っていない、ホッとする。扉が閉まって下っていく。三階で突然エレベーターが止まった。誰かが乗ってくる・・・宇野は凍り付いたような恐怖を感じて、扉が開いた時、目を閉じて呼吸を止めた。

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