2012年2月9日木曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ ・言葉のアーカイブス <標高280m>

連載小説 【あり地獄】 8

『おい、奴は今どこを走っている?』『ちょっと待ってくださいよ、盛岡の手前あたりです』『山道に入っても分かるのだろうな』『勿論です、GPSで追跡しています』。彼らは昨夜の内に、宇野の車に衛星追跡装置をセットしていた。


宇野はそのような事は全く知らない。半信半疑で彼らを撒いてしまったと思っていたのだ。迷ヶ平まで行けばまず安心だ。こんな辺鄙な所までは追って来ないだろうと確信していた。会津若松から十和田まで460kmはあるだろう。途中盛岡で高速道路を降りる。

その頃男達も少し遅れてゲートを出た。白いセダン、黒ずくめの男二人であった。宇野信二は精神的にも肉体的にも疲労困憊であった。温泉にでもつかって少し眠りたかった。彼は山間部に向かって車を走らせて行く。

どこかに、温泉付きの町営休憩所のようなものがあるだろうか。盛岡市は清流北上川と中津川に沿って拡がる風光明媚な土地である。岩手県の県庁所在地であり、石川啄木や宮沢賢治が有名である。宇野信二は雫石温泉へと車を走らせている。以前この地方出身の男と仕事をしたことがあった。酒を飲むと彼の田舎の雫石の話をよく聞かされたものであった。

そこに国見温泉があるとその友人は言った。珍しい緑の濁り湯、是非一度訪ねたらいいと薦めてくれた。もう二十年も前の事であった。疲れ切った脳細胞がやっと手繰り寄せた記憶であった。立ち寄ってみようと思った。とあるこじんまりとした和風旅館に車を止めた。少し休憩出来るか問うてみた。女将らしい女性が快く引き受けてくれた。純朴な岩手人の優しさにいっとき心が安らぐ。


下に鶯宿川の清流が音をたてて流れている。周りはもう紅葉に染まりきっている。川の中の露天風呂に降りていった。宇野は悩みや苦しみのない精神状態の時に、この地を訪れていたらどんなにか良かっただろうかと思った。しばらくして気を取り直してこれからの逃避行を考えたとき、今の休息はなくてはならぬ重要な時間だと確信した。


その頃白いセダンは盛岡の町に入っていた。車を止めて一人の男が携帯電話で長い話をしている。その横を岩手県警のパトロールカーがゆっくりとすり抜けて行く。警官が無線機を取り上げてどこかに連絡をした。白いセダンを運転する男が何かに気づいたのか、急に発進してすぐに右折、パトカーの視界から消えていった。

宇野は緑の湯の中でこれまで自分の上に降り掛かってきた問題を整理して考えていた。脳細胞が少しづつ活性化してきているようだ。自分は今回の私立校の不正入学については、テレビでいっているような組織的不正入学とは関係を持っていない。あえて言える事は、あの日クラブで50万円の現金を受け取った事だ。

これについては軽率のそしりを真逃れる事は出来ない。『汚職』と言われてもやむを得ない。しかし今も手つかずでそれは保管している。早く返しておけばよかったと後悔していた。

自分を追ってきている黒い影は一体何物だろうか。少なくともクラブで会った龍の彫りものを持った男達でない事は確かだった。それは宇野の直感がそう判断していた。それが一層また心に重たい不安感と恐怖心を醸成していた。

そんな事を考えている内に湯の中でまどろんでしまっていた。どのくらい時間が経過したのだろうか。あたりにはもう夕暮れが迫っている。冷たい風が川面を流れてススキの穂が一層秋の深まりを感じさせている。

あと一ヶ月もすれば、この辺りにも雪が舞うのであろう。彼は少し軽くなった体で旅館まで続く階段を上って行った。今夜はこの旅館に一泊しようと心に決めていた。露天の湯船の中で、生きていく勇気が少し戻ってきたのを確かに感じていた。昔の友人が与えてくれた貴重な時間であった。

宿の女将は、なかなか帰って来ない宇野を心配していた。女将の直感で、ひょっとすると彼が自殺願望者かも知れないと感じていたのである。けっしてそれは間違ってはいなかった。宇野は、このまま死んでしまえば楽になるだろうと考えた事も何度かあった。その気持ちを払拭させたのは、『迷ヶ平』が彼を呼んでいるように思えたその一点からである。なんとしても『迷ヶ平』へ行こうと。

女将に今夜の宿を借りる事を告げて、奥の離れの部屋に傷心の旅装を解いた。もう掘り炬燵に火が入っている。宇野は、切断していた携帯のメールを開けた。そこに彼が見た驚愕のメッセージとは・・・・。

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