2012年2月23日木曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ ・言葉のアーカイブス <標高295m>

連載小説 【あり地獄】15

朝早く目覚めた宇野は、川に面した部屋のガラス戸を開けた。深い渓の底から震えるような冷風が体全体を包み込んだ。久しぶりの心安らかな朝であった。祇乃が隣の部屋から、お茶を運んできた。


『祇乃さん、良く眠れましたか?』そう言って祇乃を見たとき、まるで初々しい花嫁のような姿、顔立ちがそこにあった。『ほんと、ぐっすり眠ることが出来ましたわ、何ヶ月ぶりかしら』。祇乃は宇野にあらためて朝の挨拶をした。少なくとも母親にきちっと教育された仕草ではあった。

『祇乃さん。松山へ行こう』宇野は正座してしっかりと云った。『本当!どうして?』その驚きの中に得も言われぬ祇乃の歓びの感情が見て取れた。『祇乃さんを、松山に連れて帰る。そうして貴女のお母さんにご挨拶したい』『ええ!母に?でも突然、どうして・・・』

宇野は、夕べあれから一晩中考えていた。祇乃の生まれ故郷を訪ねよう。年老いた母が一人で生活していると聞いた。祇乃の母親に今回の出来事の全てを話そう。そして自分の今回の償いが済んだら、正式に祇乃と一緒になろう。そして松山の祇乃の家に入って、母と祇乃と三人で農業をやろう。もう政治の世界に対する未練は微塵もなかった。また世間はこんな自分を許容するほど甘くはないと確信していた。

祇乃が新聞を持ってきた。初めて見る『津軽新報』である。小さな記事に目が止まった。そこには、二人の男が警察に逮捕されたとあった。関西の有名私立校不正入学に関係のある人物だとの内容であった。宇野はあの男達だと思った。祇乃が『迷ヶ平』で擦れ違った二人組。宇野の車にGPSの装置を取り付けたのも彼らの仕業だろう。

これで今すぐの危機は回避できた。心の中の重たい部分が消えて行くのを感じて体に活力が漲って来るのを感じていた。宇野は昨夜一晩かかって考えた事を祇乃に話した。彼女は宇野の膝に顔を埋めてしばらく泣いていた。『そうと決まったらすぐここを出よう。準備をして、祇乃さん』『はい!』明るい声が弾けるように宇野の背中に返ってきた。宇野は簡単な内容でこれからの行動について、信頼している神和住 学にメールを打った。

旅館の女将に、いずれ落ち着いたらゆっくり伺う約束をして玄関を出た。庭にいた、ごま塩頭の頭領が『旦那様も、奥様もお元気で』。と言って深々とお辞儀をした。二人はお互いに顔を見合わせて、苦笑した。

陸奥の国に冬が訪れようとしている、十月ももう終ろうとする寒い朝の事であった。

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