2012年9月11日火曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・言葉のアーカイブス <標高 446m>

日本旅行協会 『旅』一月号、昭和七年一月一日発行を読みながら。「バック・トウ・ザ・パースト(時を戻して)」 第 11 



【静かな奥伊豆温泉】              棟方銀嶺



蓮臺寺温泉は、吉田松陰が米艦に投じて渡航しようとしたことがある、丁度その頃、ひぜんを病んでこの温泉に療養してゐたといふので、温泉の效能と史的事實の魅惑とが錯綜してより有名になってゐる温泉場である。

蓮臺寺も河内(かうち)温泉のやうに田圃を控へ後に山を背負ふてゐて取りたてて景色を云々するがものはない處であった。が、河内温泉に比して何處かに落ちつきのある静かな温泉場であった。

泉質は透明の硫黄泉で皮膚病、リウマチ、神經痛等に特效があり、療養行楽向きとでも言ふ温泉場で、下田から藝妓を呼ぶことが出来るので粋人向きでもある譯だ。

旅館も整ったのが三四軒あり、全部で十一、二軒の旅館が夫々相當の客を収容して繁昌してゐるところで、宿泊料も二圓から五圓位が止りである。

下田から新鮮な魚が入って来るので、その點は田圃の中に在る温泉場でも恵まれてゐる譯だ。が、海が近いといふだけでは喰べ物の總てが美味いといふ結論は得られない。海の物の新鮮さはあっても、その調理法が下手であっては何にもならぬ。この點蓮臺寺温泉はも少し都會人向きの喰べ物にも留意すべきであろう。

然し贅澤を言へば切りがない。冬のさ中に西瓜を望むことが出来るから!

最初は石橋に泊まった、二度目は會津屋で晝飯を喰べて下田へ引っ返した。落ちつきのある田圃中の温泉に強い魅力を感じてゐる。

蓮臺寺を後に下田へ、更に自動車で三十分、下賀茂温泉を訪ねた。妻良(めら)街道に沿ふて青野川の流れにのぞんだこの温泉は、蓮臺寺温泉、河内温泉に比して、よりひなびた温泉場だった。八幡屋とか鈴木屋、福田屋などといふ旅舎が田圃中に或いは農家に入り交って建てられてあった。

それだけに荒らされてゐない、人情の濃いやかさといふものも覗(うかが)はれた。そして嬉しいことには、冬だといふにポカポカと暖かい陽が、四邊(あたり)の山々に差し込んで、いかにも南國らしいのんびりとした空氣が流れてゐた。

それに、青野川の畔にはそこ彼處にもうもうと湯氣をたてて温泉が湧いてゐた。ここを訪ねる人々を一層喜ばせるのも、斯うした南國らしい暖かさと、湯の豊富な、そして人情の質朴さがあるからだといふことだ。

別に娯樂機關とてもないこの温泉は、療養向きとして今後大いに賣出すべきで、中途半端な娯樂設備にこの温泉場を荒らさしたくないとは私ばかりの考へでもなささうだ。

それほど私にとってはお氣に召した温泉場でもあったし、一度はおすすめもしたい温泉場であった。温泉は温度が高いので、地熱を利用しての温室栽培がお行はれて、そこでは大きなメロンが作られてゐた。又、附近には石廊權現、修福寺、手石の彌陀窟等の名勝もあり、滞在中一度は杖を曳くべきところとされている。


☆ ★ ☆

<庵主よりのひとこと>


蓮臺寺温泉は、1300年ほど前、行基上人によって発見されたという名湯で、稲生沢(いのうざわ)川沿いの素朴な自然の中に位置する温泉地である。豊富な湯量と、静かな風情が、訪れる人々をなごませるのは今も昔もかわりはない。

下鴨茂温泉は源泉数が多く、湯量豊富な伊豆半島最南端のいで湯である。青野川と伊豆の山々に囲まれたのどかな風景は、立ちのぼる湯けむりとともに温泉情緒をさらに演出している。早咲きの桜と菜の花の時期が特におすすめだろう。(各温泉H.Pを参照)

(庵主の思い出日記:時を戻して より)続きます

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