【男達の黄昏・・そして今(3)】
ある早春の午後、寿司処『明石屋』のお店からこの物語は始まった。明石鶴之進、通称鶴(つる)さん。なかなか古風な良い名前である。本人はこの名前を結構気に入っているらしい。ネタの仕入れを午前中に済ませて、一通りの仕分けをして、冷蔵庫へ入れて一息ついたのが昼前の11時半頃であった。その日は3月の初めにしては、暖かい気持ちの良い朝であった。亡くなった妻の仏壇に花と、昨日お客さんから頂いた上生饅頭(じょうようまんじゅう)を供えた。奥さんと死別してまだ一年が経たない。彼の連れ合いは昨年の6月20日、梅雨の長雨が降って肌寒い朝、市民病院で63歳の人生を終えた。寝付いて半年であった。和歌山の御坊で生まれた漁師の娘であった。鶴さんとは大阪の仕事場で知り合って結婚した。いわゆる職場結婚である。不景気の波に翻弄されて、彼らの会社は敢えなく倒産。26歳にして無職の身となった。鶴さんの両親が少しばかりの援助をしてくれて、二人はここ夕陽丘で商売を始めることにした。
初めのうちは、野菜やら、玉子などの日常の生鮮食料品を仕入れて売っていたが、根っからの努力家、何を思ったか寿司屋を開く準備を始めた。それというのも、鶴さんの実家は兵庫県明石で魚屋を開いている。通称『魚の棚』(うおんたな)の一隅にである。まあそんな事で学生時代から家の商売を手伝っていた関係で、少々『包丁』が持てたのである。魚も実家から仕入れればなんとかなる話であった。
妻の幸代さんもまんざら関係のない事もなく、和歌山の実家の仕事は漁師であった。料理の腕もなかなかしっかりしていた。寿司飯くらいはなんなく段取り出来ると言うものであった。そんな、見通しが立ったので思い切って店を改造して、現在のようなカウンター10席、テーブルが3つ、忘年会や新年会の場合は、二階の自分たちの居間のフスマをはずして、宴会場として使えるようにした。とは言え、住宅街の中の寿司屋、そんなに食べに来る客は多くはない。しかし出前は結構忙しかった。それと冠婚葬祭時の仕出しは、月に2〜3回の注文が来た。これは助かっていた。結構人数がまとまるのが有り難かったのである。
この夕陽丘の住宅地が開発されたのは、昭和50年の始めであった。当初は数十戸の規模であったが、年を経る毎に大きな街に生長した。いまではこの地域から市会議員が一名出ているほどである。学校も、小学校、中学校、高校と揃っている。なかなか高校などレベルが高いらしい。進学率が良いと評判である。街のメインスツリートには近郊の私鉄の駅からバスが頻繁に通っていてアクセスの不自由はない。
それでも他の地域と同様に、少子化の傾向は年々大きくなっており老人の目立つ街になりつつあった。そんなおりもおり、『明石屋』の店先に3人の男が立った。『ごめん下さい、もうやっていますか?』『らっしゃい、どうぞ中へ!』こう言って3名のお客さんが『明石屋』のカウンターに腰掛けた。この時間帯に男性が食事に来るのもそう無かったので、鶴さんは正直心躍ったのである。