【男達の黄昏・・そして今(33)】
自称『川上ノボル』こと、小田村敏夫はクリスマスイブの日に演じる『腹話術』の準備と練習に余念がなかった。今回は彼の心の中に描いていた、『白雪姫と七人の小人』のお話しを人形劇のタッチで演じようと決めていた。部屋の隅に並べられたその人形達は、あの日リチャード先生の応接間にいた人形達なのであろうか? 今はまだそれは分からない。山麓保育園の子供達が喜ぶ光景が、彼の心を序々に清らかな状態に変えていくようであった。
山岡周八はその後、自分の書いたシナリオに添って行動を開始していました。その為にはなんとしてもクリスマスの日までに、その男小田村敏夫と会っておきたいと考えていたのです。それは、宝沢警察署の香山雄三部長刑事が言った『深入りをしないように』と言う戒めを破る事でもありました。ある危険を侵してでもその目的を果たさないと、彼の描いたシナリオは途中で挫折するからに他ならないと思っていました。そうは言っても何の繋がりもないその男に会うなんて、どう考えても容易な事とは思えなかったのも事実でした。また小田村もそれなりにガードを固めるに違いないでしょう。深沢周八の胸の中に去来していたのは、小田村敏夫の早世の息子『真一』と、この夏の朝、小田村と話をしていた『ふ〜ちゃん』と呼ばれていた男の子こそが彼ら二人をを繋ぐ唯一の紐だと確信していました。
季節は中秋の鰯雲をつれて、夕陽丘5丁目から眺める仙人岳の山頂を美しい夕焼けで染め上げていました。朝晩の冷気は一層、山裾から広がっていく広葉樹林を遠目から見ても色鮮やかに変えつつあるのです。黄昏班のメンバーはそれぞれに新しい季節の到来に向かっての準備に余念がありませんでした。紅葉の頃に、『馬の背町』へハイキングに行く計画も進んでいました。日曜日なので、あの天宮真智子さんも是非参加したいとの事。みんな何故だかそわそわしているのは一体どうしてでしょうか?
山岡哲はその後何度か、『椚台』の片槙京弥氏の邸宅を訪ね来年の市会議員選挙についての勉強と構想を練っておりました。黄昏班が白羽の矢を当てた候補者、深沢周八は仲間の熱心な説得に、心は少しづつ動き出していたようです。そうは言っても全く未知なる世界に、周さんならずとも不安と戸惑いを感じているのはやむなき事であります。山岡氏から聞いたところによると、当選に必要な票数は4,000票以上だとか。気の遠くなるような数字にその不安は益々つのって行きます。しかしそこは、データ分析の周八さん、それなりに彼一流のシナリオを既に書きつつあったのです。世の中、出来る人はどこにでもいるものですね。
そんなある日、山岡哲は深沢周八を伴って『椚台』の片槙京弥氏を訪ねています。黄昏班の市会議員候補予定者、深沢周八を紹介するのが目的でした。片槙翁はいつもの羽織袴姿で紅葉に彩られた邸宅の庭を散策しているところでした。若い書生然とした青年に案内されて、翁の居るお庭に入りました。大広間から眺めるお庭とは全く違った景色が広がっています。大きな池があって、その畔に東屋が造られています。翁はその東屋で池の鯉に餌をやっていました。大きな錦鯉が折り重なるようにして餌に殺到しています。
『先生、お早うございます。この前お話ししました深沢周八氏です。』『深沢です、初めてお目に掛かります。宜しくお願い致します』。と神妙な姿勢で周八は深く腰を折りました。『ようこそ、深沢さん。貴方のお噂はかねがね聞いていました。いや山岡さんからじゃあありませんよ。』『と申されますと。』『実はあなた方も知っておられると思うが、市警察の香山雄三は私の遠縁に当たるのじゃよ。』『ご親戚ですか?』と山岡。
『そうは言っても、滅多に会うことはないがのう。この前私の母の法事で彼と出会ってな、世間話の中で君たちの事を聞いたのじゃよ。その時深沢さんのお名前が出て、面白い人じゃとの記憶が残ったのです』。そう言って片槙は書生の運んできた茶を飲んだ。二人もお茶をいただいた。まろやかな上質の旨いお茶であった。池にかかる老楓が燃えるような葉を揺らせている。都会の中にある、まるで別天地のような片槙邸。妻を早く亡くし、今では書生と二人でこの邸宅に住んでいる。一人娘は、大手薬品メーカーの社長に嫁いで関東に住まいしている。一年に一度、母の命日にここに帰って来るが、なにしろ忙しい身ではあるらしい。それもそのはず彼女はその会社の取締役を務めているからである。
山岡が先日伺ったとき築山に見た「蜜箱」が書生の手によって運び出されて行く。どうやら今日辺りが「採蜜」の日らしいのである。その時深沢周八が京弥翁に問いかけた。『あの蜜蜂の箱は、出入りの植木屋さんが置いていったと山岡から聞きましたが・・・』『おう、あれはもう長く出入りしている植木屋の道楽らしいのだよ』。『その植木屋さんのお名前を聞かせてもらえませんか?』『小田村だが、それがどうかしたかな?』
『いや、どうって事はないのですが私も蜜蜂に興味があるものですから。』そう言ってさりげなく話を交わしたのでした。やはり小田村敏夫は植木職人であった。だからあの日、リチャード先生宅に事もなく入り込んだのであろう。それも変装して顔形を完全に変えてしまっていたのであった。
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