2011年2月28日月曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・早春の庭先 <標高35m>

【広がる大自然 妙高高原の早春】

明日から3月の始まり。西日本からは、早咲きの桜の便りや菜の花畑の黄色い絨毯の映像も届く今日この頃。ここ妙高高原では朝の内は濃霧、昼から晴天の日が続きました。こんな時こそスノーシューを履いて、OK牧場を歩いてみるのも一興。



杉野澤の集落方面を見て、自由にあっちこっちと歩いてみた。誰もいないのが不思議と面白い。スノーシューさえ履いていればどこまでも行ける。ただし川や池には充分注意してゆっくりと進む。スキーの板を付ければ、クロカンスキーに早変わり。ここで標高770mほどでしょうか。若干空気が薄いため、ハードな動きをすると息が切れます。やっぱり歳でしょうかねえ。

2011年2月25日金曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・雪解けの頃 <標高34m>

【橡(とち)の実 ひとつ見つけた】


少しずつ溶け出した雪の中から出てきたのは「橡の実」でした。栗に似ていますが栗ではありません。栗よりも精悍な顔つきをしています。それはまるで中世の騎士のような兜を被っているからなのです。


栗の実は焼いても、蒸しても、煮ても美味しく食べることが出来ますが、この橡の実はあく抜きを十二分にせねば、なかなか美味しく頂けない困りものです。でも地方のお土産に買ったり、頂いたりする「とち餅」はとっても美味しいですね。昔から山里では「栃の木」は伐採禁止になっていました。それは飢饉の時の食料になったからです。

フランスのシャンゼリゼ通りのマロニエの並木道は、「西洋栃の木」の事でしょう。別名「馬栗」ともいいます。馬が首を伸ばしてこの実を好んで食べるからでしょうか。


2011年2月24日木曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・面白よた話 <標高33m>

【天井に棲む妖怪】

我が家の天井には不思議な目を持つ妖怪が棲んでいる。ゲゲゲのキタロウに出てくるような顔をしている。『おい、もうちょっと温めてくれい。寒くって腰が疼くのじゃ』。などと話しかけてくる。「木瓶骨」なる名前を付けてやったら嬉しそうにしている。『キビキビン』と笑う声が案外可愛いのである。

中には蝋燭の火がことのほか好きな「樹蝋人」なる妖怪もいるのだが、こいつは比較的おとなしい。ボクが太いキャンドルに火を付けてやるとじっと目を閉じて何か考えている。この妖怪の一番嫌いなものは「カメムシ」である。カメムシが近付いてくると、天井の隙間に隠れて出てこない。あの青臭いにおいが嫌いなのだろう。そう言うボクも嫌いだがね・・・

2011年2月22日火曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・雪中の草花 <標高32m>

【妙高高原にもやっと春の香りが】

2月21日、朝から好天気でしたのでカメラをぶら下げて春を探しに雪道を歩いたのです。雪解け水が迸っているところに、地表に顔を出したばかりの蕗の薹を見つけました。


ここらは温泉が豊かな土地です。小さな溝からも湯気が上がっているほど。そんな場所に雪を溶かせた溜まりがありました。そこにはもうセリ(芹・クレソン)が揺れていたのです。


早春とはまだ名ばかりかも知れません。でも確かに一歩ずつ季節は巡ってきているのです。

2011年2月21日月曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・言葉のアーカイブ <標高31m>

【ヴィオロンとマグネット(届かなかった手紙)最終回】



ドイツから医師ヨアヒムが訪れた福島県会津の町は、1224日クリスマスイブの雪の中に静かに眠っていた。山岡龍次から紫野慎次郎の住所も聞いていた。そして予め慎次郎の孫娘、愛希に今日の訪問についての全ての内容を知らせてあった。

日本の古い家々が建ち並ぶ会津美里の通りに、一台のタクシーが入ってきた。町の家々の屋根も木々にも昨夜降った雪で覆われていた。

ドイツ人医師ヨアヒムは、ある大きな門構えの家の前でタクシーを停めた。会津の町にはもう夕暮れが迫っていた午後4時頃だった。

タクシーをおりてヨアヒムは大きく深呼吸をした。なんとも言えない清浄な、冷たい空気が彼の胸の中に染み通ってきて、引き締まった日本の冬に感動していた。

家人が数人、門の外で待っている。ヨアヒムは白い息を吐きながら、男性と握手をした。その人は紫野慎次郎の長男、正一氏だった。連絡をとっていた愛希に促されるように、彼は大きな屋敷の庭に案内された。

この屋敷の中に自分の父と思われる、慎次郎がいる。果たして見えない目で自分を待っていてくれるのだろうか?一瞬ヨアヒムの心の中に不安が過(よ)ぎったのだ。

大きな日本座敷に通された。そこには日本家屋独特の暖をとるスペース、囲炉裏が切ってあった。優しい暖かさが部屋全体に漂っていた。

彼は椅子をすすめられて・・・そこに腰をおろす。愛希が傍に来て、祖父慎次郎が間もなくここに来ることを話してくれた。背筋を伸ばして待つヨアヒム、その時正一と愛希に介添えされた慎次郎が障子を開けて入ってきたのだ。

白い頭髪、痩せた体、光を失った目。でもその風貌にはどことなく『野武士慎次郎』の面影を残している。

慎次郎は今、ヨアヒムの前におかれた椅子まで進んできた。ヨアヒムは立ち上がって、『ワタシハ、ヨアヒムトモウシマス。ハジメテオメニカカリマス』。とドイツ語で話した。

『シンジロウデス。ヨクゾ、アイヅノチニコラレマシタ。ウレシイデス』。慎次郎ははっきりとしたドイツ語でそれに応えた。正一も愛希も慎次郎がドイツ語を話すのをそのとき初めて聞いたのだった。

二人は手をしっかりと握りあい、椅子に腰かけました。愛希は祖父にヨアヒム医師の来られる事を既に話していた。慎次郎も心の準備をしていたのだった。

ヨアヒムは胸のポケットから一通の手紙を取り出したのだ。そしてその手紙をそのまま読み始めたのだ。それは母ロジーナが47年前に、一人慎次郎の事を思いつつ認(したた)めた手紙そのものだった。そのままドイツ語で読み進んでいく。

膝に固く握り締めた拳を置いていた慎次郎の肩が小刻みに震えていく。頭(こうべ)を垂れて、むせび泣く老人の目からは止めどなく涙が膝を濡らしている。

最後の『今にも貴方のもとに飛んでいきたい、会って抱きしめてもらいたいのです』。とロジーナが語りかける所では慎次郎は嗚咽を上げたのだ。

愛希がそっと祖父の目にハンカチを当てた。その時慎次郎は震える手を伸ばして、その手をヨアヒムの顔に近づけた。赤髭の顔をゆっくりと撫でている。目、耳、口、それはまるであのドイツ・キールの夜のロジーナの顔を思い出すかのような所作であった。

そして彼は『ヨアヒム!』と言って息子の大きな体をしっかりと抱き寄せたのだ。ヨアヒムも『ファーター!』(お父さん)と言ったきり慎次郎の痩せた胸にすがって泣いた。それはいままで一度も肉親の暖かさを知らなかったヨアヒム医師の姿だった。

しばらくして、ヨアヒムは胸の奥から一つの馬蹄形マグネットを取りだした。それは彼が7歳の時、老ライファーから渡されたあのマグネットだったのだ。

慎次郎も着物の胸の中から同じマグネット、それはロジーナがあの夜、彼に渡した片方、そのものだった。その二つのマグネットは、50年の歳月を越えてここに一つに結びあったのである。

慎次郎は紙袋を一つ取りだして、ヨアヒムに手渡した。その中に入っていたのは、あのキールでの再会の日、初めて二人で写した写真だった。たった一枚のそのセピア色の写真には、「慎次郎とロジーナの青春」がハッキリと残されていたのだ。

それらはロジーナの深い愛を越えて、その息子マンハイム州立病院外科部長、Dr. Joachim(ヨアヒム)に、二人の命の継承がなされた瞬間だった。

明くる朝、紫野慎次郎邸を去って行くヨアヒム。見えない目で息子を見送る慎次郎。慎次郎の手には、愛するロジーナとの果たせなかった愛の形見である二つのマグネットがしっかりと握られていた。

その朝磐梯山は新雪に輝いて、慎次郎の目にも明るい光が届いていた。「届かなかった手紙」が今間違いなく届いたのと同じように。(完)

2011年2月20日日曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・言葉のアーカイブ <標高30m>

【ヴィオロンとマグネット(届かなかった手紙)9】

ヨアヒム医師は、母ロジーナから紫野慎次郎へ出された「届かなかった手紙」を示して自分の出生をそのまま山岡に話した。何としても自分の父親に会って、母ロジーナの残したこの手紙を渡したいと熱意を籠めて彼に訴えたのだった。

この人物が現在、日本の何処に住んでいるのか。果たして今も健在でいるのかどうかをまず知りたい、そのために是非力をかしてほしいと頼んだのだ。

戦前日本の内務省に勤務し、その後退職をした紫野慎次郎の行方を探す仕事を快諾してくれた山岡龍次に別れを告げ、ヨアヒムはハンブルグの町を後にした。

ヨアヒム医師が、山岡龍次とハンブルグで会ってから既に数ヶ月が経過していた。ヨアヒムの勤務するマンハイムにも遅い春が近づいていた。そんなある日、山岡より電話がかかってきたのだ。

その後山岡は、日本の外務省や東京都などに連絡を入れて紫野慎次郎の足跡を調べてもらうように依頼していた。そしてつい最近、福島県の県庁内の一つのセクション「視覚障がい者生活支援センター」という部署より連絡があったと伝えた。

その内容を山岡は簡単に要約して話してくれた。紫野慎次郎は現在、会津のある場所で生活しているということ。そして彼は視覚障がい者として、支援センターに登録されていること。

今慎次郎は、家族に見守られて安らかな余生をすごしているが、二年前に長年連れ添った奥さんを亡くしていることなどが判明したとの内容であった。

ヨアヒム医師は、父と思われる人が視覚障がいを得ている事に医師として心を痛めた。これは一刻も早く、日本を訪ねて母ロジーナの手紙を手渡したい思いがつのるのだった。

199012月、Dr.ヨアヒムは日本を訪問する少し前、ベルリンにある「孤児院」を訪ねた。そこでは自分を育んでくれた施設と、今も働いている保育士に会うのが目的だった。

彼は自分を育ててくれた老ライファー(保育士)に会って、今回の全てを話した。老ライファーはじっとヨアヒムの目を見つめていたが、大きな広い腕で彼をしっかりと抱きしめてこう言った。

『おまえのお母さんが、きっと導いてくれている。いつものお前の優しさをその日本の父に捧げるように』。ヨアヒムも老ライファーも抱き合って泣いた。その涙によって心が落ちつき、まるで聖水で洗われたような気がしていた。

この老ライファーこそ、ヨアヒム少年に馬蹄形マグネットを手渡してくれた人物だったのだ。その時彼は何も言わずヨアヒムの手のひらにそれをおき、その上に自分の大きな手を重ねて、『お前の人生に限りない神の祝福があるように』。そう祈ってくれたのはヨアヒム少年、7歳のクリスマスイブの晩のことであった。

2011年2月18日金曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・言葉のアーカイブ <標高29m>

【ヴィオロンとマグネット(届かなかった手紙)8】

ヨアヒムはその夜、郵便局から持ち帰った手紙を開封した。まず宛先がJapan・東京・内務省・紫野慎次郎と記されていた。その紫野という人物は母ロジーナとはどのような関係にあると言うのか、そしてその手紙の内容とは?

そこには母ロジーナに子供が宿った事が記されているのだった。そして読み進んで行くうちに、それはキールの町で母が当時住んでいた家での、ある夜から始まっていたことが窺い知れたのだ。なんとその日本人は母ロジーナを心底愛し、ここドイツの地で再会を果たした夜、ただの一度だったが刹那の炎を共にしたのだった。

母はそのことを慎次郎に伝えるべくこの手紙をしたためていたのだった。ところが戦火が激しくなり、混乱の中で手紙は行方不明。その後ロジーナは男児を出産した。生まれてきた子の風貌は、まさに東洋人の血を引いているような思慮深さを残していると記されていた。

その乳飲み子を抱いて、空襲の下を逃げまどう若き母ロジーナ。キール空襲の夜、防空壕を目指してよろけながらもひた走る母。容赦なく雨あられと降り注ぐ弾丸と炎。

その時一発の至近弾を受けた母ロジーナは力尽き、水を求めつつ命尽きたのだった。

それでも母は胸の下に泣き叫ぶ幼子をしっかりと抱いていた。そして力無く伸ばした手には、一つの馬蹄形マグネットが握られていたと言うのだった。

ヨアヒムは自分の出生の真相を知った時、見知らぬ母、ロジーナの深い愛を感じて号泣していた。ベッドに倒れ込んで、シーツを握りしめて子供のように泣きじゃくったのだった。

天涯孤独と思いこんでいた自分を、たとえ短い間でも乳を飲ませ、暖かく柔らかな胸に抱きしめ、この目を見つめてくれたであろう母ロジーナ。今も自分の体の中に生き続けている母の命の脈動。

知らない間に何時間かが経過していた。涙が涸れてしまったヨアヒムはその時ある事をじっと考えていた。それはこの手紙を受け取るはずであった紫野慎次郎、即ち自分の父であろう日本人への思慕とその消息であった。

非業の死を遂げた母ロジーナの為にも、父慎次郎を捜しだすことが自分の使命だと確信していた。

ヨアヒム医師には、ハンブルグの日本総領事館に友人がいた。早速彼は友人に連絡を入れ、是非力になってもらいたいことがあると電話で話したのだ。

その友人山岡龍次(やまおかりゅうじ)からは、一度会って話を聞こうと言ってきた。ヨアヒムはその年の冬、雪の中をハンブルグのホテルへと向かっている。



2011年2月16日水曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・言葉のアーカイブ <標高28m>

【ヴィオロンとマグネット(届かなかった手紙)7】

その古い手紙の受け取り人は、「Japan,Tokyo,Dep.of the Interior」内務省、Mr.Sinjirou Murasakinoとなっていた。インクが消えかかっていたがなんとか読む事が出来た。

そして差出人は、ロジーナ・レヴィン(Rosina Revein)と裏に記されていた。ヨアヒム医師は、その手紙を何か不思議なものでも見るように色んな角度から眺めていた。それは消印によると、汚れて掠(かすれ)てはいたが19432と読むことが出来たのだ。

彼は開封する前に、まずこの古い手紙が自分の手元に届けられた経緯(いきさつ)を知らねばならないと考えた。

数日後ヨアヒム医師は、近くの、Auf der Post(郵便局)に出掛け、窓口で先日配達されて来たこの封書について尋ねてみた。しばらくすると局長と名乗る男性が出てきて、彼の部屋に来るように言った。

その経緯は次のようだった。最近本庁で保管されている宛所のない郵便物の整理が行われたらしい。その中に、第二次世界大戦時に何らかの事情で、宛先に発送されなかった郵便が沢山保管されていたと言うのだ。

戦時下の事、それは検閲に引っかかったもの、戦火が激しくなってSchiffspost(郵便船)が出航しなかったものも含まれていただろう。彼の手元に届いたのは、それに相当していたのではないかとの局長の話だった。

ではどうしてこの手紙が、自分と関係があると分かったのかを尋ねてみた。その時、初老の所長はじっと考えていたようだった。彼は言葉を一つ一つ選びながらゆっくりと話し出した。

Dr.ヨアヒム、まことに申し上げにくいのですが率直に申し上げて宜しゅうございますか?』『ええ、当然です。それを聞くためにここに来たのですから』。ヨアヒム医師がそう言ったとき、局長は一冊のファイルを書類棚から取り出して戻って来た。

そのファイルには、「孤児院関係」とだけ記されてあった。そして彼はあるページを開くとじっとヨアヒムの目を見て、ひとつ頷(うなづ)いた後、ゆっくりと話し始めたのだ。

『先生は、ベルリンのA孤児院におられましたね。実はその施設の資料に基づいてこの郵便物はお届けしたのです』。『ええ私は少年時代をA孤児院で過ごしました。あの戦争で、私を生んだ父も母も、そして親戚もみんな死んでしまったのです、だから・・・』。

局長はその話をじっと聞いていたが、やがて同情と優しさの眼差しで彼を見つめながら、こう話を続けたのだ。

『この差出人は、ロジーナさんです。ほらここにロジーナ・レヴィン(Rosina Revein)とうっすらと読めるでしょう』。彼は手紙を裏返して、指でなぞりながらヨアヒムに示した。ヨアヒムもここに来る前に、その名前は判読出来ていた。でもその差出人が誰なのかは全く分からないまま、開封せずにここを訪ねたのが実態だった。

『ところで、このロジーナ・レヴィンという方はどなたなのでしょうか?』『Dr.ヨアヒム、あなたは本当に何もご存知ないのですか?』『ええ、全く思い当たりません。まして戦時中のことですから』。

しばらく沈黙を保っていた局長は、意を決したかのように話し出した。『この手紙をお出しになったのは、貴方のお母様です』。それを聞いたヨアヒム医師は驚きというより、頭の中が真っ白になったかのように感じていた。

孤児院でもそんな話は一度も出なかった。少年に生長した頃から、自分は天涯孤独だと心底信じていた。だから戦災孤児の施設に入っているのだと思っていたのだ。

局長がファイルを眺めながら、言葉を続けた。『貴方のお母様は、あのキール空襲の夜、戦火から逃げまどう中に倒れて、帰らぬ人となったようです。でも胸の中にしっかりと一人の赤子を抱いていたのです』。『母・・空襲・・死』。ヨアヒムは一言ずつ、言葉に出して呟いた。

『その時、民間の自衛消防隊の一人がその女性の胸の中から一人の男の赤ん坊を抱き上げました。幸いその子は無傷だったそうです』。『それが・・・その赤子が、私だったというのですか・・・』。

Dr.ヨアヒムはむせび泣くように言った。

『その時お母さんの胸に縫いつけられた認識票でどなたかがわかったのです。この記録に残ったのはその民間自衛消防隊員のお陰でした。お母様は手に一つの小さな馬蹄形マグネットをしっかり握っていたそうです』。

ヨアヒムは『あっと!』驚きのあまり声を上げた。そして彼は、自分の胸のポケットから一つの古いマグネットを取りだしたのだった。

2011年2月14日月曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・言葉のアーカイブ <標高27m>

【ヴィオロンとマグネット(届かなかった手紙)6】





ドイツ、マンハイムに住むヨアヒム(Joachim)は、ハイデルベルグ大学を卒業してマンハイム州立病院の医師として今日も忙しい一日を終わろうとしていた。

マンハイム(Mannheim)は、ドイツバーデン=ヴェルテンベルグ州の都市であり州都シュトウットガルトに次ぐ大きさである。そこは日本の京都の町のように、市街地が碁盤の目のように区切られている整然とした町である。

ヨアヒム医師は、マンハイム大学近郊の静かな通りに面した古びた一軒家を借りて生活をしていた。まだ独身であり、年齢は40歳を少し越えてはいたが、その赤髭の風貌は彼の年齢を5歳ほど老けて見させていた。

彼は幼少年時代を、ベルリンの孤児院で過ごしている。先の戦争で身内も親戚も不幸にして戦火に倒れ、頼る者が一人もいなかったからであった。いわゆる戦災孤児である。しかしヨアヒムは小学校から大学まで、常に首席で通す程の秀才だった。

その結果、彼はハイデルベルグ大学医学部を卒業し現在マンハイム州立病院の外科部長として多くの医師を指導する立場にあった。

その年19888月のこと、朝から蒸暑い空気が病院を取り巻いていた。クーラーが十分に効かないほどの暑さで、どこの部屋も窓を全開して、せめて外からの涼しい風を期待していた。

朝の10時頃、彼の元に一通の手紙が届けられた。どうみても最近出された手紙ではないようだ。封筒の上に、ここマンハイム州立病院外科病棟内、Dr.ヨアヒム殿とタイプで打たれた小さな紙片が貼り付けられてあった。

2011年2月12日土曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・言葉のアーカイブ <標高26m>

【ヴィオロンとマグネット(慎次郎とロジーナの青春より)5】



ロジーナとの初めて共にした「愛の時」は、彼にとって終生忘れることの出来ない誰にも話せない「秘め事」であった。しかしいつかきっと会える。見えない目にロジーナの笑顔がゆれては消えていく。

可愛い孫はいつの間にか、バイオリンスクールに通っていた。そして慎次郎の前でよく習いたての音楽を聴かせてくれたりもした。その日も慎次郎の最も好きな曲、「ローレライ」を奏でてくれるのであった。

(1) なじかは知らねど 心わびて
  昔の伝説(ツタエ)は そぞろ身に染む
  わびしく暮れ行く ラインの流れ
  入り日に 山々赤く映ゆる

(2) (ウル)わし 乙女(オトメ)の巌(イワオ)に立ちて
  黄金(コガネ)の櫛(クシ)とり 髪の乱れを
  ときつつ口ずさむ 歌の声の
  くすしき魔力(チカラ)に 魂(タマ)も迷う

(3) 漕ぎ行く舟人(フナビト) 歌にあこがれ
  岩根も見やらず 仰げばやがて
  波間に沈むる 人も舟も
  くすしき魔歌(マガウタ) 歌うローレライ
H.Heinrich 作詞 P.F Silcher 作曲 近藤朔風 訳詞)


彼の元に、ロジーナの亡くなったことが伝えられたのは、昭和も40年を過ぎた頃であった。彼女は194553日連合国のキール空襲のさ中、戦火に倒れたという。その手にはしっかりと馬蹄形の磁石が握られていたとその人は書いていた。

慎次郎は、今手の平に乗っている片一方の磁石を見えない目で見つめていた。彼女のブルーの瞳がじっと自分に注がれているのを感じて、涙が止めどなく膝を濡らしていた。

光を失った目に、いつまでも若い溌剌としたロジーナの面影が揺れる。いつの日かきっとあの世とやらでの再々会を信じて、今日も「ローレライ」の乙女にロジーナを重ねる慎次郎であった。

その日会津磐梯山に初雪が降った。愛孫の話す空の色は、あの日のキールでの夕暮れのそれと同じであった。

2011年2月10日木曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・言葉のアーカイブ <標高25m>

【ヴィオロンとマグネット(慎次郎とロジーナの青春より)4】

二度と訪れないだろうこの日、この夜、それは若い二人の上に神が与え給うた、最初にして最後の「愛の時」であったのかも知れなかった。二人はその「愛の時」に向かって一艘の「本能の小船」に乗って出航していった。

時には優しく、ある時は荒々しく、止まり、また漕ぎ出し、目眩(めくるめく)襲ってくる陶酔の中で二人の体はお互いに溶け合うように絡(から)み合い、縺(もつ)れ合った。「本能の小船」の中で疲れた四肢を休ませながら、夜の底が白くなるまで幾度となく求め合い、満ち足りた抱擁を重ねあったのである。

慎次郎はその朝、彼女からひとつの小さな宝物をもらっている。それは馬蹄形の磁石であった。この北ドイツでは、男女の恋が成就出来るようにとの願いと祈りを込めて、このマグネットをお互いに持つ習慣があった。

それはどんなに遠く離れていても、いつも二人は引き合っているとの思いがその磁石に秘められているらしい。彼はそれをカバンの底に入れて、昭和15年も押し迫る頃、任務を終えて木枯らしの泣く東京に無事帰ってきたのである。

ドイツでの「紀元2600年奉祝行事」は大盛会のうちに終了した。ロジーナ母娘も祝賀会にベルリンまで来てくれたのであった。後ろ髪を引かれる思いを持ってロジーナと別れてきたことが、いまだに慎次郎の心を締め付けるのであった。

数年後、ドイツも日本も戦いに敗れ国土は荒廃し、人心は乱れ、國やぶれて山河ありと言った様相を呈していた。紫野慎次郎は、生き長らえて福島県会津に戻っていた。やがて結婚をして家庭を持った。その頃から、彼の目に映っていた景色が、少しずつ満月が欠けていくかの様に視野を狭くしていったのである。ロジーナとは日本が戦争に突入して以来音信不通が続いていた。

彼の目の不具合は、何が原因かは分からなかったが、過去の厳しい勤務からくるストレスがそうさせたのかも知れなかった。そして10年を経ずして、光は彼の目から序々に離れていったのである。会津の生家の縁側に座って、内務省に勤務していた頃の思い出を紡ぐのがその頃の彼の日課となっていた。妻も彼を助けて献身的に仕えてくれていた。

やがて息子夫婦に女の子が生まれて、慎次郎も爺になった。孫と日がな遊ぶのが何よりの喜びでもあった。その時も慎次郎の胸のポケットには小さな馬蹄形のマグネットが入っていたのであった。


2011年2月8日火曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・言葉のアーカイブ <標高24m>


【ヴィオロンとマグネット(慎次郎とロジーナの青春より)3】




ロジーナの父親は、ハーケンクロイツの紋章を付けて、特殊な仕事に従事していた。それは日本の国のある部分とも関係があったが、慎次郎の職務の範疇外であった。父はキール湾の隠された島で、新たな兵器の研究を続けていた。そしてほとんど家に帰ってこないとロジーナは嘆いた。

いつも母と二人だけの寂しい生活であったらしい。キール湾に帳が下りるまで、二人は5年近くの離ればなれの生活を語り合った。彼女から今夜は是非わが家に泊まってほしいとのたっての願いを受けた。

母親からも是非にと伝えて欲しいとの事だという。慎次郎は彼女の願いに応えてその言葉に甘える事にしたのである。

キール湾に添った運河の流れる美しい森の中にロジーナたちの家はあった。重厚なレンガ造りの古い館である。そこには50歳を越えていると聞いた母親が満面の笑みを浮かべて出迎えてくれた。

彼は自分の故郷の母親のことを思い出して、目頭が熱くなるのを感じた。夜の楽しい夕食が終わった頃、母親は数日前から風邪気味とかで、早めに休ませてもらったとロジーナは言った。二人で火を囲んでワインなどを飲んで過ごすひとときは、慎次郎にとってもロジーナにとっても、もう二度とやってこないかも知れない至福の時であった。

大きな柱時計が11時を告げた。その時ロジーナはそっと立ち上がって彼の手を取った。そして先に立って彼を奥の部屋に導いたのであった。慎次郎は驚いたが、だまって彼女のなすがままに任せていた。

ロジーナは、大きなベッドが置かれ古風な家具に囲まれた寝室に彼を導いた。慎次郎は彼女の心が痛いほど分かっていた。戦時下の両国、その戦雲は暗くどこまでも果てしない。まして自分たち二人の人生に対する将来の展望すら見えないのが現実の姿でもあった。

2011年2月6日日曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・言葉のアーカイブ <標高23m>

【ヴィオロンとマグネット(慎次郎とロジーナの青春より)2】


二人はやむなく別れねばならなかった。ましてその頃の世情は、外国人と一緒になるなど稀有なことでもあった。最後の夜慎次郎は、銀座のレストランでキャンドルの灯を見つめながら、ロジーナとともにキールにての再会を誓ったのである。

昭和14年の年が暮れようとしていた。戦雲は怪しげにうごめいて、暗い世相が重くのしかかるように感じられる年末であった。翌15年は、「紀元2600年」という国家にとっては奉祝の年である。

年が明けると、数々の奉祝行事が計画されていた。紫野慎次郎にドイツ出張が命ぜられたのは、昭和15年6月、梅雨の晴れ間の午後の事である。その任務は、ドイツの日本大使館で開催される「紀元2600年奉祝行事」の指導という名目である。

その年の1117日、紀元2600年祝賀行事で「挨拶と音楽」をドイツから中継するというものだった。そしてそれらの楽曲を「紀元2600年奉祝交響楽団」が12月中旬に日本国内で演奏する計画が進んでいた。

慎次郎はベルリンの在独大使館に10月初旬に到着している。数週間の後、慎次郎はロジーナとの再会にキール軍港に向かっている。もう冬の足音が近づいているシュレスヴィヒ=ホルシュタイン州・キールであった。

彼の訪ねた町は、キール湾の奥に位置している。北海とバルト海を繋ぐノルト・オストゼー運河の要として海運、造船を中心とした軍港である。この地形的、位置的好条件によってドイツ帝国の戦力の要でもあった。

海軍、ことに潜水艦基地としてその価値は極めて高いものがあった。我が国においては、広島の呉鎮守府のおかれている呉湾に風光が似ていた。紫野慎次郎はこれまでに何度か江田島の海軍兵学校には会議で赴いたことがあった。

昭和1510月下旬のその日、慎次郎とロジーナは、キール入江の東岸を北上して湾口のラボーに向かっている。ラボーハーフェンから近いエーレンマールのビーチにあるホテル、ミノテール・ラベスのラウンジのテーブルに腰掛けていた。

北ドイツ特有の荒れた海、灰色の今にも降り出しそうな空の色。それに引き替えホテルの暖炉に燃える火の色の優しさ。慎次郎は何も言わず、ロジーナのブルーの瞳をじっと見つめていた。


2011年2月5日土曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・言葉のアーカイブ <標高22m>

今日から、10回連続でアップさせて頂きます『ヴィオロンとマグネット』。変なタイトルですが紫野慎次郎とドイツ人女性、ロジーナの青春の一ページを切り取りました。


戦争という時の流れに翻弄されながらも、彼らの青春と愛が哀しくも儚く燃えているのです。この小品は3年ほど前に以前のブログで発表したものです。(この物語はすべてフィクションです)



【ヴィオロンとマグネット (慎次郎とロジーナの青春より) 1】



紫野愛希の祖父慎次郎は、帝大を卒業後内務省に奉職した。出身地は、福島県会津である。武士の家系に育ち、厳格な教育を受け今では仲間から、「野武士慎次郎」と呼ばれていた。ある意味、融通の利かない頑固者であるということだ。

しかし彼の頭脳は、内務省創始以来五指に入ると言われているほどの秀才だった。大学時代、ある宮家に友人がいたこともあって外人との交わりも結構多かったのである。

この話は、昭和10年の秋の日まで逆戻らねばならない。その日慎次郎は、宮家の集まりに招待を受けていた。それはある国から留学に来ている王子のバースデーパーティへの誘いであった。

ゲストのほとんどは、学習院を卒業していた。東北帝国大学出は、紫野一人である。その時同じようにロジーナという女性もそのパーティに招かれていた。彼女はドイツ・キールの出身だと言った。

慎次郎が以前調査した艦船、アスコルドはドイツのクルップゲルマニア造船所で19003月に進水し、その後中国の旅巡に根拠地を置く露西亜太平洋艦隊に編入されていた。

そのクルップゲルマニア造船所のあるキール(Kiel)は、バルト海に面した、Das Dritte Reich(ダス・ドリッテ・ライヒ)第三帝国のドイツ北部の都市、シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州の州都であり、ドイツ有数の軍港である。

それが縁でその後何度か彼女と会う機会があった。慎次郎はドイツという国に興味をもっていた。その頃は日本と独逸は友好国であったのも彼の思い入れに輪をかけていたのである。

宮家で初めて出会ってからすでに半年が過ぎていた。ロジーナの父親は、海軍省の招きで日本の潜水艦造船技術のサポートをするために日本に滞在していた。そしてその年で3年の締約期間が終わろうとしていた。彼ら家族はそれが終了次第キールに帰ることになった。その頃慎次郎とロジーナは既に恋に落ちていたのである。
 



2011年2月3日木曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・妙高はイケメン火山 <標高21m>

【立春の妙高山】

妙高火山帯の上に住んでいるボクとしては、その山の現在の状況は正直言って気になりますね。つい最近も宮崎県と鹿児島県に近い新燃岳が噴火したのですから。そこで今日、久しぶりの好天気だったものですから、妙高山の冬の山容を写真に撮りに出かけたのです。

まずカメラを据えたのは、まさに活火山(ランクC)・妙高山の恩恵に今もあずかっている池ノ平温泉からでした。


厳冬の越後富士(妙高山・2454m)はやっぱりイケメン火山ですね。見ていて惚れ惚れします。吸い込まれるように眺めていたとき、ギョギョッ!!(どこかで聞いたギャグですが)としたのです。


この写真中央の谷間から雲のようなものが上がっているのがお分かりになるでしょうか。この煙こそ水蒸気なのです。南地獄谷では今日もまだ火山活動が続いているのです。まあそんなに驚くほどの事ではありませんが、まだ現役の活火山なのです。文献を読んでみますと、妙高山は終焉を迎えつつある火山であると記されています。まずは一安心ですが、ボクの住んでいる周りにも4000年ほど前に大噴火を起こした時に飛んできた大きな岩がいくつも転がっているのです。(写真はクリックすると拡大するよ)


2011年2月2日水曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・冬のイベント <標高20m>

【日本スキー発祥100周年・2011.1.12】

1911年1月12日にオーストリアのレルヒ少佐が現在の新潟県上越市において、日本に初めてスキーを伝えてから、100周年を迎えます。これを契機に、スノースポーツの魅力をこれからもより多くの人々に伝えていくことを目的に、2009年11月に、官民を超えてスキーに携わる関係団体で、「日本スキー発祥100周年委員会」が設立されました。日本の美しい雪山とスノースポーツを心から愛する皆さんとともに、これからの100年を見据えて活動していきたいと思います。

このPR文は、日本スキー発祥100周年委員会のホームページにおいて発表しているものです。

妙高高原エリアがちょうどその発祥の地にあたるのです、ボクの住む周りのスキー場では様々な記念のイベントが計画されています。記念の缶バッチを売っていましたので早速買い求めて愛用のリュックに付けてみました。