2011年2月20日日曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・言葉のアーカイブ <標高30m>

【ヴィオロンとマグネット(届かなかった手紙)9】

ヨアヒム医師は、母ロジーナから紫野慎次郎へ出された「届かなかった手紙」を示して自分の出生をそのまま山岡に話した。何としても自分の父親に会って、母ロジーナの残したこの手紙を渡したいと熱意を籠めて彼に訴えたのだった。

この人物が現在、日本の何処に住んでいるのか。果たして今も健在でいるのかどうかをまず知りたい、そのために是非力をかしてほしいと頼んだのだ。

戦前日本の内務省に勤務し、その後退職をした紫野慎次郎の行方を探す仕事を快諾してくれた山岡龍次に別れを告げ、ヨアヒムはハンブルグの町を後にした。

ヨアヒム医師が、山岡龍次とハンブルグで会ってから既に数ヶ月が経過していた。ヨアヒムの勤務するマンハイムにも遅い春が近づいていた。そんなある日、山岡より電話がかかってきたのだ。

その後山岡は、日本の外務省や東京都などに連絡を入れて紫野慎次郎の足跡を調べてもらうように依頼していた。そしてつい最近、福島県の県庁内の一つのセクション「視覚障がい者生活支援センター」という部署より連絡があったと伝えた。

その内容を山岡は簡単に要約して話してくれた。紫野慎次郎は現在、会津のある場所で生活しているということ。そして彼は視覚障がい者として、支援センターに登録されていること。

今慎次郎は、家族に見守られて安らかな余生をすごしているが、二年前に長年連れ添った奥さんを亡くしていることなどが判明したとの内容であった。

ヨアヒム医師は、父と思われる人が視覚障がいを得ている事に医師として心を痛めた。これは一刻も早く、日本を訪ねて母ロジーナの手紙を手渡したい思いがつのるのだった。

199012月、Dr.ヨアヒムは日本を訪問する少し前、ベルリンにある「孤児院」を訪ねた。そこでは自分を育んでくれた施設と、今も働いている保育士に会うのが目的だった。

彼は自分を育ててくれた老ライファー(保育士)に会って、今回の全てを話した。老ライファーはじっとヨアヒムの目を見つめていたが、大きな広い腕で彼をしっかりと抱きしめてこう言った。

『おまえのお母さんが、きっと導いてくれている。いつものお前の優しさをその日本の父に捧げるように』。ヨアヒムも老ライファーも抱き合って泣いた。その涙によって心が落ちつき、まるで聖水で洗われたような気がしていた。

この老ライファーこそ、ヨアヒム少年に馬蹄形マグネットを手渡してくれた人物だったのだ。その時彼は何も言わずヨアヒムの手のひらにそれをおき、その上に自分の大きな手を重ねて、『お前の人生に限りない神の祝福があるように』。そう祈ってくれたのはヨアヒム少年、7歳のクリスマスイブの晩のことであった。

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