2011年8月26日金曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・聖書に学ぶ <標高114m>


『聖書に学ぶ』「やもめと裁判官」のたとえ(上)

ルカによる福音書、181節~8

 初めに、イエスのたとえ話はたまに辻褄のあわない事があるということを知っておきたい。この未亡人と裁判官のたとえ話もそのうちの一つであろう。

 当時の世間では、裁判官という職業は地位と金が稼げる安定した職場であった。この裁判官はローマ帝国の裁判官だったようで、ワイロが横行していた時代であり、ほんとうのところ、立派な裁判官は少なかったようだ。

 ここに登場する女性は地位の低い「やもめ」であり、誰もまもってくれないのだ。イエスはそのような女性を登場させている。聖書の文言を読みながら話を進めていこう。

 イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。1節~3

 こういうことであります。この女性は、相手を裁いてわたしを守って下さいと裁判官のところにくりかえしやってきてそう言ったのだ。どうみてもストーリーになっていないでしょう。

 状況をつまびらかにしていない。このやもめが正しいのかどうかは、この話には明確にされていません。キリストはその事は無視しているのです。

さて続いて聖書を読んでみましょう。

 裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」4節~5

 こんなにしつこい女性がいたというシチュエーションであります。その裁判官はしばらくの間は取り合わなかった。何もくれない者は駄目だよ、くらいの気持ちだった。この裁判官は、神をも畏れず、人を人とも思わない、法の番人とはとても言えない裁判官であった。しかしこのやもめが余りにもうるさいので、彼女の為に裁判をしてやろうと思ったというのです。それは正義の為ではなく、自分の為だったのです。すなわち、「うるささ」からの逃避でした。(明日に続きます)


教会の十字架は「赦し」の象徴です。人を赦すと同じく、自分自身をも赦すのです。




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