『聖書に学ぶ』「やもめと裁判官」のたとえ(下)
ルカによる福音書、18章1節~8節
続いて聖書は・・・
それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか」
そこでだ、イエスはこのたとえ話を何の為にされたのでしょうか。「気を落とさずに絶えず祈ること」の為にこの話を出されたのです。詩篇22にもあるように、最初は『わが神、わが神、なぜに私をお見捨てになるのか・・・』といった恨みの文句がつづられています。そして祈り続ける中で、その人は前に導かれていくのです。苦しい中で、一日中祈っている、そしてその祈りは、神を称える祈りに昇華していきます。
私達も祈り続けても道が見いだせない時が多々あります。しかし答えがない祈りを続けていく中で、神を見出していくのでしょう。それは祈り続けるという行為のなかで、わたしたちは縋るように神に懇願し、そして序々に目覚めていくのです。そしてついにその人は、神の恵みを語りだすのであります。
祈りを続ける者は、必ず神を見出し救われるという詩の心を書き記したのが、詩篇22でありました。ここでルカは、『気落ちをせずに祈りを続けなさい』とイエスはわたしたちに語っておられるのだと書いています。たとえ不正な裁判官、このような人でも、何度でも続けて頼んだら、聞き入れてくれるのです。まして神様は昼も夜も叫んで求めている人々を決して忘れてはいないのです。
神様がわたしのことをほうっておかれる、忘れてしまわれるのではないかと、思ってしまうことがあるかも知れないが、決してそうではないとイエスは申されているのです。
聖書には・・・
「言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」8節
有名なエッセイストがいました。この女性は博士号をとり、35歳で大学の学長にもなった。しかし50歳のある時、鬱(うつ)病になりました。そして死にたいと思うようになり、病院に入院します。鉄格子の入った部屋に入れられたとも話しています。
祈ってもなにもこたえられない日々が続きます。彼女は、神が遠くになってしまったと嘆いたのです。そんな彼女に神様がこたえて下さるのはどういうことなのだろうか?そんな悩みの日々の祈りの中に、このような言葉が彼女に天降るのです。
「神様は人に対して、背負うことの出来ない重荷を与えられません」この言葉で彼女は救われたのでした。そして、「祈りを続けてこられたからこそ」その重い言葉(真理)が彼女の口を衝いて出るのです。
さきほど見た、詩篇22は、「なげきの詩篇」と言われています。そのような祈りであっても、大切な時には、神様はきっとお聞き届けになって下さるのです。父なる神には、きれい事の祈りでなくっても良いのです。まず祈り続ける事が大切なのです。イエスも十字架の上で同じ祈りをされました。
「お祈りからあなたの信仰が始まるのです」たとえそれが、辛子種ほどの小さな信仰であっても、神様は必ず道を開いて下さる。教会はそのことを証しする癒しの場なのであります。
お読み下さった全ての方々の上に、神様の愛があたえられ、必ずや悩み苦しみが神様の手によって慰められ、癒され、救われますように。
この昆虫は蛾の仲間で「オオスカシバ」といいます。蟬のような透き通った羽根を持って、花の蜜を吸っています。何事も出所来歴で判断することは避けるべきだと思いますね。
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