2011年10月2日日曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・聖書に学ぶ <標高150m>


『聖書に学ぶ』手の萎えた人を癒す(下)

マタイによる福音書 第12章 9節~14




では安息日は何のために在るのかというのが問題なのです。神の戒めを守る事は大切だが、何故その戒めを与えられたのかという意味が解っていない。安息日は神様がお定めになった大切な一日です。単に体を休めるのみならず、魂や霊的なものを休める日でなければならないのです。

神の導きの中で、自分たちは働きそして安息日を与えられているのに、人間は戒めを守ることだけを考えているようなのです。土曜日、ユダヤ人の店は閉まる。イスラエルのゴルゴダの丘の上に建っている教会があります。その「聖墳墓教会」の門を開けるのはキリスト教関係者ではなく、イスラム教の方が鍵を持っていて開けるのだそうです。

では神様が与えて下さった戒めや儀式とは何なのでしょうか?当時は奴隷の家に生まれたら、一生奴隷の身であり、働き続けなければなりませんでした。一週間の内に一日休むというのには大いなる意味があるのです。

生かされている悦びを確認するのが安息日の本来の意味なのです。

「戒めは人間を生かす為にある」

マルコによる福音書には、安息日は人を生かす為にある、バプテスマは人を生かすことなのです。そこであなたは既に救われていることを知るのです。片手の萎えた人は「神様から祝福されていない人」なのでしょうか?信仰が足りなかったので、そうなったと当時の人々は考えていたのです。

ところがイエスはその人を目の前で癒された、そのことに大きな意味があるのです。その「癒し」こそが、大切なことなのです。イエスが人間をどう思っておられるのか。

たとえ身体に障害がある人であっても、それはかけがえのない大切な一人の神の子、人間なのです。イエスは人間を祝福する事を実践され続けたのです。

補足として、あとの2節も書いておきましょう。

13節~14

そしてその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、もう一方の手のように元どおり良くなった。ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。

悲しいことですが、2000年以上前の人々も、現代に生きるわれわれ人間も大きく変わってはいません。正しい事をなそう、改革を進めようと信念をもって生きている人の足を引っ張ったり、その方を職場から放逐したりというニュースもつい最近もありましたね。聖書には人生の指針となるお話しが沢山書かれています。クリスチャンでない私も時間をつくって読むように心掛けているのです。
降り注ぐ愛 Imagined by Jun


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