2011年10月8日土曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・言葉のアーカイブス <標高157m>

唖子喫苦瓜(あこくかをきっす)

今日は趣を変えて、随想を記(しる)す事にします。今まで書き溜めてきた心模様を少しだけですがね。タイトルの語句は、禅の言葉のひとつです。

唖子喫苦瓜(あこくかをきっす)と読みます。唖の子(人)が苦い瓜(うり)を食べたが、その味を表現するのは難しい。それと同じように仏法や神道の本意は言葉ではなかなか表現出来ないものだと言うのです。

禅の言葉に不立文字(ふりゅうもんじ)というのがありますね。何事も自分で体験、経験した物、事、などが身に付くのであると。とは言え人間、歳を重ねると新しい事に挑戦するのにどうしても尻込みしてしまうものです。パソコンを習得しようと思ってもそこには勇気がいるものです。私もご多分に漏れず、会社でパソコンを一台与えられて、さあこれで日常の業務をするように、と指示された時は一種の恐怖を感じました。

私が一番気になったのは、パソコンを操作する途中で会社のパソコンを壊してしまいやせんか、と言う恐怖心でありました。なにかの拍子に動かなくなった時など本当に日汗(ひあせ)が出たものでした。

しかしその内に、パソコン自体そんなに簡単に壊れる物ではない事が判ってきて、それからは開き直ったと言うか、心安らかに仕事に打ち込めたのでありました。

自分で苦労して覚えた事は死ぬまで忘れない。まず体が覚えています。私はかつて、心奥(しんおう)からの呼びかけを感じて、『教育勅語』(きょういくちょくご)を必死になって暗記したことがありました。

またどうしてそんな? と言う方もおられるかと思いますが、そのものの本質が、『正か偽』かを知る為には、それをより深く知悉(ちしつ)する必要があります。いい加減なところで妥協するのは嫌なのです。事実熟読してみるとそれは、人生の規範がしっかりと示されていて、いかな時代が変わろうとも通用するまさに教育の根幹だと認識した次第です。

これはどんな事にも当てはまるもので、勉強もせず、本も読まず、その場所にも立たず、事の『正邪』を論議する事は私にとって良としないのです。いまでも『教育勅語』が空で言えるのは『必死』だったからであります。

泳げなかった私が泳げるようになったのも、中学時代の夏、深い透明な和歌山・白浜の海での決死の体験があったからでした。

この時の体験談は、『産経新聞』平成18819日付け、テーマ投稿『私のホ−ムラン』に『水澄む海、自力で泳げた自信』に掲載されました。これは蛇足でした。『好きこそ物の上手なれ』という諺がありますね。さすれば、『男と女の、ゴジャゴジャ』もそうなんでしょうか? 「陰の声」『ええ歳してまだそんな事を言うてんのか! アホ!!』


野尻湖畔に憩う 白鳥のボート Imagined by Jun

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