『いっしゅはん』、辰兄いは私の事をこのように呼ぶ。『ジャモウはいつ来てもワイには懐きよらんな』『そらそうやろ、三味線屋ちゅうの、よう知っとるさかいな』と私。『せやかて、こいつは三毛とはちゃうで』『三味線ちゅうのは、シャムではあかんのかいな?』『あきまへんな。三味線の胴には三毛がピカ一や、それも雌の腹の皮でっせ』。
ジャモウは二人の会話に耳をピクピク動かしながら聞いていたが、どうやら安心したのか眠りについたらしい。クヌギの薪束の上に小さな毛布を敷いてもらって彼はシシリーの港町の夢でもみているのだろうか。
『いっしゅはん、デユーク・エリントンのA列車で行こう頼むわ』。彼のお気に入りの一曲である。ジャモウがうっすらと目を開けて、『またか』というような仕草をしたが、辰つあんは気付いていない。
『酒は?』『ハイボールやってんか』私が準備する間にいつものパイプを取り出して、もうくゆらしている。ジャモウは不思議と煙草の匂いは嫌がらない。それよりも、まとわりついてくる煙を追う仕草さえ見せる。
ひょっとしたらシシリーの港のバーもこんな感じだったのではと、あらぬ幻想を抱いて私は一人頷くのである。
『Good
Evening.ハ〜イ』と言いながら、薔薇の花束を持って入ってきたのは、自称タカラジェンヌ『疾風真麻』(はやかぜ まお)さんである。『いっしゅうさん、こんばんは。あれもうやってんの、辰兄い』『悪かったなあ、ハヤマさん』。辰兄いは疾風さんの事をこう呼んでいる。
『は〜い、マスター。プ・レ・ゼ・ン・ト』。と言って、深紅の薔薇を恭しく差し出す。まるで、ヴエルサイユの薔薇の芝居のようにである。『メルシ、オスカル・ジェルジュ』とすかさず辰兄いが受ける。
三人が揃って笑ったものだから、ジャモウが驚いて頭を擡げてこちらを見た。『ごめんね、ジャモウちゃん。ほら君にもおみやよ』。と言ってハヤマさんは、ポケットからビーフジャーキーを取り出して鼻先に持って行く。
ハイボールが出来たところで、ハヤマさんは辰兄いにもジャーキーを渡す。『おおきに、しゃあけんどワイは猫と一緒かいな』『辰つあん、猫と仲良うしいや。来世の事もあるんやで』『いっしゅはん、怖いこと言っこなしや』。いつの間にか『A列車で行こう』が終わって、また維摩に優しい、静けさが戻ってきていた。
疾風さんは、なにか台本のようなものを取り出して読んでいる。辰兄いは、パイプのボウルの中をダンパーで押さえながら、競馬の出馬表に赤鉛筆を走らせている。私はドアーを少し開けて煉瓦路を眺めた。
暗い路地に街灯がポツンと一つ灯っている。潮の香りとともに、船の汽笛が聞こえて来る。明日も天気だろうと勝手に決めて店に戻った。ジャモウはまだ、ジャーキーにじゃれついている。
二人目のお客さん登場。疾風真麻さん、いい娘ですよ。是非一度会いにいらして下さいよ。ああ、その時、ビーフジャーキーをお忘れ無く。皆さん今日も一日ご安全に。維摩(ゆいま)、主人敬白。
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