2013年9月30日月曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・花一輪 恋の笹舟 <標高 754 m >


花一輪・恋の笹舟(十五)

仏説摩訶般若波羅蜜多心経

「無罫礙故、無有恐怖」

順心が第二の故郷、丹波篠山の久遠実相寺(くおんじっそうじ)に帰り着いたのはもう十一月の半ばを過ぎていた。出立した頃は真っ赤に色付いていた楓も、今はくすんだ黄色に変わり、もうそこまで冬が来ていた。

峠を越えて、檀家の立ち並ぶ集落に入った。野良仕事をしている人々は順心の姿を認めて、手を止めて駆け寄ってきた。口々に無事にての帰村をわが事のように喜んでくれる。その純朴な気持ちが嬉しく、胸にこみ上げてくるものがあった。

長旅ではあったが、その間に歩いて鍛えた足は疲れを知らなかった。顔も浅黒く陽に焼けて、精悍ささえ漂わせている。会う人ごとに、逞しくなった順心の体つきをみて感嘆の声を上げた。自分ではそれと分からなかったが、久しく見ない人たちにとっては、まるで別人のように映ったのであろう。

小さな風呂敷包には、春禰尼にと思って買い求めた伊予絣の作務衣が入っている。首からは大きな托鉢のズタ袋を下げ、一本の樫の木で出来た杖を持っている。足には草鞋。それももうすり切れて、寺まで帰り着くのが精一杯である。

この丹波篠山の地を離れてみて、順心はこの山懐に抱かれた村々のたたずまいが、心から有り難く、懐かしく感じて、四国の道中にあってもそれは片時も忘れることはなかった。

のぼりの道を一回りすると、久遠実相寺の山門が見えてくる。苔むした長い歴史の感じられる寺である。そして山門の傍の大きな杉の木にすみついている、キジバトの啼く声がいつものように聞こえてくるであろう。それは私を待っていてくれたかのようにである。ここに生きとし生けるものへの愛おしさを一層深く思うのであった。

経を唱えながら一足、一歩と最後の行脚を進めている。この一瞬、一呼吸こそ、釈尊が御教えの中に語られた、不生不滅の実相世界であろう。こうして順心49歳の秋はいよいよ深まっていく。

☆ ★ ☆

庵主よりの一言

 無罫礙故、無有恐怖(むけいげこ、むうくふ)



「心にはひっかかりがない。ひっかかりがないから、恐怖心もないのである。心の苦しみの原因を作らない、心の窓を開く、ということは、何のこだわりもなく、豊かに、丸い心を持ち、おそれるところもなく生きる。」(谷口雅春先生 講義の筆記より)


もし私達が、恐怖心・取り越し苦労を生活の中から取り去る事が出来れば、それが原因で起こってくる「精神の不安定、ストレス」や「胃の痛み」、「不眠症」など多くの病から解放されるでありましょう。その解決方法は、またいずれ。



2013年9月29日日曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・自然界の掟 <標高 753 m >

【カマキリとオニヤンマ】

暖かい陽が降り注いでいる芝生 朝から一頭のオニヤンマが悠然とパトロールをしています 小さなトンボをおいかけたり 黄チョウを捕獲したりしていました  

その時でした オニヤンマは上空に舞い上がったかと思うと一気に舞い降りて来て熊笹の茂みに入り込んだのです なにか格好な獲物がいたのでしょう ボクはカメラを持ってその場所に忍び足で近づきました そこで見た光景は驚きの一場面でした


なんとトンボの王様 オニヤンマがカマキリに捕まっているではありませんか 必死で逃れようともがいていますが これはもうなす術はありません カマキリの二本の鎌の手にがっちりとホールドされては少々大きな昆虫でもどうにもならないのです 数分でオニヤンマは事切れました

カマキリは一気にヤンマの首に喰い付き 喰いちぎってしまうのでした その獰猛さには今更ながら驚きました でもこのオニヤンマも熊笹の中に何かいるのを見つけて襲いかかったのです 結果相手が悪かったのでしょう まさにカマキリの圧勝でした 昆虫の写真を撮っていますと残酷なシーンに何度も遭遇します これも「自然界の掟」なのです このカマキリもヒキガエルや大きなカエルには一気に食べられてしまうのですから ボクはオニヤンマの最後を確認し 合掌してその場を去ったのでした

(庵主の日時計日記:自然と私)より

2013年9月28日土曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・秋の童謡 北原白秋 <標高 752 m >


       【赤い鳥小鳥】                                         
  赤い鳥、小鳥、
 なぜなぜ赤い。
  赤い實をたべた。


 
     白い鳥、小鳥、
  なぜなぜ白い。
      白い實をたべた。
 
  青い鳥、小鳥、
       なぜなぜ、青い。
       青い實をたべた。


秋の今頃は 小鳥たちにとっては冬を迎える前の栄養補給の大切な時期です 赤い実や青い実に群がってせっせと啄んでいる光景は 間もなく冬の訪れを感じさせてくれます 『北原白秋作詞 赤い鳥小鳥』を歌ってみませんか

(庵主の日時計日記:心の内)

2013年9月27日金曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・妙高山麓は秋の実り <標高 751 m >

【杉野沢はいましも収穫の時を迎えて】


妙高山麓の杉野沢地区には広大な田や畑が広がっています 名物の蕎麦(そば)の花が咲いています 関川方面になだらかに下っている先には 妙高こしひかりの稲田が見えます


こちら側は曇って妙高山の姿はみえませんが 山麓の裾野ギリギリまで秋の実りが連なっています ここからゆっくりと山の方に歩いて行くと左に見える森の中ではいろんなキノコが収穫出来ます山葡萄(やまぶどう)や胡桃(くるみ)そして柴栗(しばぐり)も穫れるでしょう










ススキのゆれる小径を行くと 明治から昭和にかけての詩人・歌人・フランス文学者であった堀口大學が1945年 終戦直後から移り住んだ旧関川村の実家に続いています

堀口大學の遺した「雪中越冬」や「関川の里」などは 私たち妙高山麓男声合唱団をはじめとして多くの人々に今も歌い継がれています

(庵主の日時計日記:自然と私)より


2013年9月26日木曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・花一輪 恋の笹舟 <標高 750 m >



【花一輪・恋の笹舟(十四)】


仏説摩訶般若波羅蜜多心経


「菩提薩捶、依般若波羅蜜多故、心無罫礙


順心が四国で最後に訪れた寺は、阿波の徳島、美馬郡(みまぐん)の香妙(かみょう)寺であった。そこは自分の母方の出生地である。母は順心が中学二年生の時にこの世を去った。ちょっとした風邪をこじらせて、それが原因で帰らぬ人となったのである。

優しい、とても慎ましやかな女性であった。父は九州の熊本の産で中学を出て四国徳島の叔父の家に養子に来ていた。そして母と結婚したのである。その父も徳島を襲った台風の夜、河川の見回りに出たまま帰って来なかったのである。

行方不明であった。その生死は今日までまだ分からないままである。順心の母も3年が経過し、ようやく夫の生死に決着を付ける事にした。葬式をあげたのである、それは順心がまだ小学校4年生の頃のことであった。

その優しかった母が数日の煩いでこの世を去ったのである。順心は余りの悲しさに、一人でそこいらの山に入って日を過ごしていた。洞窟の中で寝、大きな木のほこらの中に雨露をしのいだ事も幾度もあった。

その姿を見るに見かねて、叔父が知り合いの寺の住職に相談した結果、その知人は関西の丹波篠山の寺に住み込みとして働くように進めてくれたのである。そこで院主をしていたのが、後に順心の心の師になる、老院主こと、酒井恭二師であった。

徳島の美馬の地に今、父母の墓を訪ねた。もう秋から冬に季節は移りつつあった。順心は誰もいない墓にすがりつくようにして泣いた。久しぶリの涙であった。若くて優しい母の面影が、山懐に抱かれた小さな墓地の片隅にひっそりと幾星霜の時を経て蹲(うずくま)っていた。

順心は心の底から思いを籠めて、経を手向けた。一心不乱に母の元へ届かんばかりに泣きながら声をあげた。しかし不思議と父への悲しさは浮かんでこなかった。それは、順心が父と最後の別れをしていなかったからでもあろう。

彼はまだ、父の死を心底信じてはいなかったからであった。


☆  ★  ☆

【庵主よりの一言】 谷口雅春師の講演記録より書き取りました。

菩提薩捶、依般若波羅蜜多故、心無罫礙(ぼだいさった、えはんにゃはらみたこ、しんむけげ)


菩提薩捶というのは、菩薩のことであります。菩提薩捶を略して菩薩と言ったのであります。自分のため、又人を済うために悟りを求めて修行する者が菩提薩捶であります。

そこでこの菩薩という者は、この般若波羅蜜多という「六波羅蜜」の一つである「智慧般若波羅蜜多」によって、無所得を悟って、心が無罫礙になったというのであります。

すなわち、もう何もないということがわかってしまったから心は何にも引っかからない。心が何にも引っかからないから恐怖心が無いというのであります。