【花一輪・恋の笹舟(十二)】
仏説摩訶般若波羅蜜多心経
「亦無老死尽、無苦集滅道」
どこからか、法螺貝の音が聞こえてくる。石鎚山に修行する修験者の吹くものだろうか。はたまた森の木々を吹き抜ける風がならす虎落笛(もがりぶえ)であろうか。順心は静かに合掌して経を唱える。
瞑想の中に、春禰尼の姿が顕れては消えていく。近くの藪で一声高く雉(キジ)が啼いた。はっと我に却って、順心は頭(かぶり)を強く左右に振った。それは女人への転倒妄想を打ち払うものであった。
その日のうちに、今回の旅の目的である今は亡き老院主の故郷、伊予の松山に歩みを標した。松山市砥部(とべ)町、厳修山・真言宗、永聖寺(えいしょうじ)、ここが老院主が青年の頃から育った寺であった。
老院主こと、酒井恭二は昭和七年九月二十三日、ここ愛媛県重信に生まれている。父は材木問屋の長男であった。恭二は5人兄弟の末っ子として、中学を卒業してすぐに地元の寺に修行に出された。
そして戦争をはさんで二十歳を過ぎて後、永聖寺にはいり、そこで修行を重ね、のちに丹波篠山の寺に住職として移っていったのは、昭和三十七年の夏頃の事であったらしい。
無住の寺に請われて入ったのである。その老院主の育った永聖寺が創建されたのは今から250年程前のことだというから、江戸時代、寛保の始めの頃であった。
順心の訪問に現住職、塚田慈雲師は、我が孫を見るような慈愛の眼をもって喜んでくれた。松山の地と丹波篠山の地とが海を隔てて離れてはいるが、み仏の慈悲の手の中で、その繋がりは今も脈々と受け継がれ流れていたのであった。
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