2013年9月26日木曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・花一輪 恋の笹舟 <標高 750 m >



【花一輪・恋の笹舟(十四)】


仏説摩訶般若波羅蜜多心経


「菩提薩捶、依般若波羅蜜多故、心無罫礙


順心が四国で最後に訪れた寺は、阿波の徳島、美馬郡(みまぐん)の香妙(かみょう)寺であった。そこは自分の母方の出生地である。母は順心が中学二年生の時にこの世を去った。ちょっとした風邪をこじらせて、それが原因で帰らぬ人となったのである。

優しい、とても慎ましやかな女性であった。父は九州の熊本の産で中学を出て四国徳島の叔父の家に養子に来ていた。そして母と結婚したのである。その父も徳島を襲った台風の夜、河川の見回りに出たまま帰って来なかったのである。

行方不明であった。その生死は今日までまだ分からないままである。順心の母も3年が経過し、ようやく夫の生死に決着を付ける事にした。葬式をあげたのである、それは順心がまだ小学校4年生の頃のことであった。

その優しかった母が数日の煩いでこの世を去ったのである。順心は余りの悲しさに、一人でそこいらの山に入って日を過ごしていた。洞窟の中で寝、大きな木のほこらの中に雨露をしのいだ事も幾度もあった。

その姿を見るに見かねて、叔父が知り合いの寺の住職に相談した結果、その知人は関西の丹波篠山の寺に住み込みとして働くように進めてくれたのである。そこで院主をしていたのが、後に順心の心の師になる、老院主こと、酒井恭二師であった。

徳島の美馬の地に今、父母の墓を訪ねた。もう秋から冬に季節は移りつつあった。順心は誰もいない墓にすがりつくようにして泣いた。久しぶリの涙であった。若くて優しい母の面影が、山懐に抱かれた小さな墓地の片隅にひっそりと幾星霜の時を経て蹲(うずくま)っていた。

順心は心の底から思いを籠めて、経を手向けた。一心不乱に母の元へ届かんばかりに泣きながら声をあげた。しかし不思議と父への悲しさは浮かんでこなかった。それは、順心が父と最後の別れをしていなかったからでもあろう。

彼はまだ、父の死を心底信じてはいなかったからであった。


☆  ★  ☆

【庵主よりの一言】 谷口雅春師の講演記録より書き取りました。

菩提薩捶、依般若波羅蜜多故、心無罫礙(ぼだいさった、えはんにゃはらみたこ、しんむけげ)


菩提薩捶というのは、菩薩のことであります。菩提薩捶を略して菩薩と言ったのであります。自分のため、又人を済うために悟りを求めて修行する者が菩提薩捶であります。

そこでこの菩薩という者は、この般若波羅蜜多という「六波羅蜜」の一つである「智慧般若波羅蜜多」によって、無所得を悟って、心が無罫礙になったというのであります。

すなわち、もう何もないということがわかってしまったから心は何にも引っかからない。心が何にも引っかからないから恐怖心が無いというのであります。



2 件のコメント:

  1.  庵主様の言われる「もう何もないということがわかってしまったから心は何にも引っかからない。心が何にも引っかからないから恐怖心が無いというのであります。」ということばに共鳴を覚えます。何が起ころうと、天地がひっくり返ろうと、もともと何も執着が無い自分には恐怖心が起こりようがない、という境地の中に生きていきたいものです。

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  2. 小川 洋帆 様

    お早うございます。いつもコメント下さり有り難う御座います。
    ボクもそのような心境になりたいと願っています。「全ては良くなる、良くなるしか無い」。との信念を強く持てば、その関門を少しは越える事が出来ると思っています。洋帆様はもう既にそのご心境では。

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