2013年12月3日火曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・花一輪 恋の笹舟 <標高 813 m >



花一輪・恋の笹舟(三十)

苦諦(くたい)・求不得苦(ぐふとっく)

『さきほどもお話し致しましたが、私は三重の鈴鹿に生まれました。今で言う母子家庭でした。母に連れられてあちこちと変わり、中学生の頃福知山の小さな家に住まいを致したのです。なぜ福知山に行ったのかは子供の頃ゆえわかりませんでした』

外ではゴウという叫び声をあげて風雪が寂夢庵の周りを駆け回っています。真っ暗闇の中でたった一つの灯明だけが生命の証しのように揺らめいています。

『そのうち、母のもとに一人の男が出入りし始めました。貧しい生活の中で母はその男に頼ったのかも知れません。しかしあまり素行の良くない人でした。いつもお酒の臭いをさせて母と話している姿を今も覚えております』



そう話した時、尼の顔に一瞬、くらい陰が過ぎったのを順心は見逃しませんでした。


『わたくしが、中学三年生の頃の事でした。母は近くのお店に働きに出ておりました。その日もわたくしが学校から帰った時、そこには誰もいませんでした。しばらくて表に誰かがやってきました。それはあの母の元に通ってくる男でした』

そこまで話した尼は大きく呼吸をして、手を合わせて御仏を拝みました。順心も同じく経を唱えながら、春禰尼の小さな背中を見ています。

『その男は、昼間からお酒を飲んでいました。部屋の中にお酒の臭いが充満して、わたしは気分が悪くなったのです。机にうっぷして暫くじっとしていました。男はわたしを労(いたわ)るかのような声を掛け、傍によってきたのです』

尼の様子は、その日の恐怖感を思い出したのでしょうか、少し顔が青ざめて固まったようになっていました。順心はただ目を閉じて、尼の話を聞いています。

『その男は、わたしの肩に手を掛けるや、強引に抱き寄せたのです。そしてわたしは・・・わたしは、その男に力ずくで辱められたのです・・・まだ中学三年生のこのわたしを、その男は・・・』

『どれほど時間が経ったでしょうか、暮れていく冷たい部屋の中でわたしは畳の上に倒れておりました。気が付いた時、その男はもうそこにはいませんでした。饐(す)えたようなお酒とタバコの臭いが、わたしの体にまとわりついて、それはいつまでも消えませんでした』

外では雪が吹き溜まって行くときのあのギシッ、ギシッという音が妙におどろおどろしく聞こえてきて、尼はなにかに怯えたかのように小刻みに震えておりました。


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【庵主よりの一言】

苦諦(くたい)・求不得苦(ぐふとっく)

求めても求めても得られない苦しみ

天、宝の雨を降らすとも 人の欲は果てじ
”少欲を味わうも苦なり”と 賢き人は知るなり
(法句経 一八六)

 人が物・心ともに「欲求のままに適えられない」苦悩と焦燥で『求むれど得られざる苦(求不得苦)』と呼ぶ。

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