2013年12月23日月曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・花一輪 恋の笹舟 <標高 827 m >



花一輪・恋の笹舟(三十五)

滅諦(めつたい)・静める、生滅滅巳(しょうめつめつい)


順心はその手紙を読みながら泣いていた。無性に悲しくて言葉も途切れがちであった。院主はじっと聞いていて最後に一言だけ言った。



『順心よ、どんなに貧しい子であっても全ては御仏のお子じゃぞ、いつまでもその気持ちを忘れるでないぞ、全ての人と接する時もその気持ちが大切じゃ。この浮葉さんの手紙を大切にせよ』



順心はその時の院主の言葉を片時も忘れてはいない。この世に生きる総てのものは、御仏の慈悲心の現れであると思う。釈尊の言葉をじっと唱えてみる。


『山川草木国土悉皆成仏 有情非情同時成道』、それは我々にこう教えている。山も川も草も木も国土さえも、総てみな仏の成れる姿である。命あるものも無きものもそれらも同じく、あるべく姿に成っているのである、と。
『聲字即實相』(しょうじそくじっそう)とその言葉は続いた。寺の裏山に騒ぐ雑木と風の音も、まさに仏の言葉そのものであったのだ。それを「聴く」自分の心が何よりも大切であると知った。これは悟りというものかも知れなかった。

それを「悟り」であると思ったとき、そこにはまた「煩悩」の炎が巻き起こる。『煩悩即菩提』とその声は言った。順心は立ち上がって、下の村に行くべく衣服を整えた。
その時寺の庭に小さな女の子が屈んで遊ぶ姿を見た。走り寄って『菜々子!』と呼びかけたが、一陣の風が木の葉を巻き上げて小さな竜巻のようになって空高く運んでいった。

菜々子の魂が今、ここを訪ねて来ていたのだろうか。順心は胸に納めた袋に手を当てた。そこにはもう枯れてしまった花の輪と春禰尼がくれた結び文が入っている。経文の次ぎに大切な、自(おのが)宝であった。

『南無大師遍照金剛・なむだいしへんじょうこんごう』と唱えながら、谷筋の道を下っていく。小さな木の橋の袂に立って、おスミ婆の御霊に合掌、礼拝をした。おスミ婆がこの世を去ってより、もう三ヶ月が経過していた。誰もいない家屋は、風雪や雨に打たれて痛みが早い。誰かが住んでくれれば良いが・・・と思いながらその橋を渡った。

 見上げる空には、もう草ひばりの声がしている。今日あたり、紅葉谷の寂夢庵を訪ねて見ようと心に決めた。なにかしら足が軽くなったのは、早春の心地良いお照らしのせいだけではなかったのであった。



☆  ☆  ☆


【庵主よりの一言】

滅諦(めつたい)・静(しず)める、生滅滅巳(しょうめつめつい)



 愛欲に溺れず 憎しみを好まず

 善悪ともにとらわれざる 

 こころ豊かなる人に 悩みあることなし


 法句経 三九

3 件のコメント:

  1. こんばんは、日が変わってのコメントお許しください。
    今、私は人生最大の難題に立ち向かっております。
    「庵主よりの一言」
    今の私にとって、最良の守り言葉です。いつもありがとうございます…

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  2. maruru 様

    お早うございます。ボクもふくめて、生身の人間には紆余曲折はつきもの。でもそこに起こって来る現象の姿に一喜一憂していては始まりません。自分に対して不要な物は伐って捨てる勇気も必要なのです。

    その行いのもとにはこんな箴言があります。ご参考までに記しておきます。
    『欲するもの好ましきもの自ずから集まり来たり、欲せざるもの好ましからざるもの用足りて去る!!』

    今はこんなことしか申し上げられません。ごめんなさい。

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  3. おはようございます。力強いお言葉、支えになります。今日も一日頑張ります…

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