【吉田絃二郎と歩く四国新居浜の旅】
私の最も愛すべき随想作家というのか、紀行作家と称する方が正しいのかはよく分からないが、彼の文章に出会って初めて、日本人の心の深淵に触れた気持がした。
彼は「旅」について昭和10年頃この様に書き残している。『旅はわたしにとって或る時は人生遍路の精舎でもあり、或る時は未知の世界への欣求でもある。わたしは旅に出るたんびに寂しい気持ちにもなる。かつて一度だってよろこび勇んで家を出たことはない。旅にでることは何となく心細い。頼りない。・・
旅は生死を賭けての門出である。“野ざらしを心に風のしむ身かな”といふ芭蕉翁の心がまへはまたすべての旅人のそれでなければならぬ』と。
絃二郎の描く日本の風景は、今では既に見られなくなったものばかりである。叙情優しく・懐かしい故郷への行脚はまるで彼をして托鉢の僧かと思わせるものがある。もう見ることも手にすることも少なくなってしまった、戦前の古書を紐解きながら75年前の人々と日本の原風景の有り様に触れてみたい。
私は平成15年の夏、四国愛媛県新居浜市に転勤を命ぜられた。これが約40年間に及んだ我がサラリーマン生活の最終章だと思って心新たに赴任したのであった。
JR新居浜駅に降り立ちてまず驚いた。その頃の駅前通りは何もないと表現しても良いほどの殺風景なものであった。ロータリーがあって古い食堂、自転車預かり所、交番、塾、あと小さなビジネスホテルが二つほど建っていただけだった。
今日では駅前開発事業により相当開けたように思うが、それでもJRに市の名前が冠された駅前の賑やかさはここには見られない。まして絃二郎が訪ねた、昭和10年頃はもっと閑散としていたのは間違いない。
『浜では祭りの夜であった。』と書いているから、新居浜は秋の太鼓祭りの真っ最中だったのだろう。十月の中旬、新居浜では町をあげての祭りだ。もう町全体が太鼓祭りの熱いうねりの中に溶け込んで行くかのようである。
私も赴任したその年、祭りの太鼓台の「かき夫」として3日間祭り三昧の日をおくった。飲み、担ぎ、そして定番の太鼓台同士の喧嘩。これが新居浜人の最高の楽しみでもあるのだ。
絃二郎は駅を出てすぐ徒歩で30分の「一宮神社(いっくじんじゃ)」を訪ねている。『禊ぎであろう。径八九尺もあろうと思はれるほどの新しい藁の輪が宮の前にしつらへてある。人々は藁の輪をくぐっては拝殿のまえにぬかづく。』と記している。今日もそんな藁の輪があるのだろうか? 一度知人に聞いてみたいものである。
現在の町の様子は、駅の東に「国領川」が南から北へと流れている。普段はほとんど水が流れていないこの川も、一端大雨が降ると、その様子は一変する。私は単身赴任の頃、その川添いに住んでいた。100年に一度の新居浜風水害に遭遇した夜、大きな岩や、流木がゴウと流れてきて凄まじい音を立てた。一晩中まんじりともせず、川の堤でその様子を見ていた。
あのような時に『川を見に出た男性、流され行方不明』との記事になるのであろう。それでも水のエネルギーを見るのが殊の外好きな私であった。その習性は今日でも変わらない。
(次回へ続きます)
赤と白の彼岸花が秋祭りを一層興奮させてくれた Imagined by Jun