2013年10月4日金曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・花一輪 恋の笹舟 <標高 758 m >



花一輪・恋の笹舟(十六)

 仏説摩訶般若波羅蜜多心経

「遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃」

長旅の疲れもなく、順心は本堂の御仏の前に坐して、この度の伊予松山への老院主ゆかりの寺、厳修山・真言宗、永聖寺への恙ない参籠に感謝を捧げ経を手向けた。

たった一人の修行がまた今日から始まる。ご本尊大日如来のご加護を祈り、村民の限りない安寧を合わせて祈る。灯明が揺れて本堂の障子をあかく染め上げた。前庭の大きな松の木の陰が障子に映って、それがまるで走馬燈のように駆けめぐって応えてくれる。



この一ヶ月の自分の上に起こった体験が、一つの物語としてそこに映し出されているようだ。道中で出会った人々の顔、話し言葉、そして永聖寺でのご住職、若い修行僧の顔、とりわけ、壮年僧、慈恵の自分に対する信頼の気持ちに今何かで応えねばならないと感じていた。



順心は今回の旅を通じてこのように思った。今までは、自分だけの小さな世界に生きていたことだった。それは決して駄目な事でも無意味な人生でもなかった。ただほとんど外界の人々との接触や繋がりがなかった、と言うより持てなかったのである。



同年配の志を同じくする僧が何を考え、どのように行動しているかさえ窺い知ることは出来なかった。それが今回の松山、永聖寺を訪ねてはっきりと分かったのであった。



その寺には東南アジアの僧もいたし、アメリカ人の僧侶とも出会った。彼らは日本の寺での勤めを果たすだけではなく、世界の宗派の僧侶達とも繋がりを持っていたし、外国人でありながらより日本的ですらあった。


人間として生まれてきて、自分の持つ夢も、それを究めていく事についてまわるであろう悩みも、生身の人間としての愛や恋に対する思いも十分に持っていた。

いわゆる戒律の中に身を置き、厳しい行を為す修行僧だけではなかったのである。そうだからと言って何ら堕落もしていなかった。そこにあるのは、御仏に帰依するが故の、限りない信仰の深さと、釈尊が同じように持たれた一人の人間としての苦悩を合わせ持っていたのである。

そこに順心は自分にない大らかさと、柔軟性を認めて一種の驚きさえ感じたのであった。


☆ ☆ ☆
【庵主よりの一言】

遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃(おんりいっさいてんどうむそう、くきょうねはん)

「悟りを開いて仏になりたい」と想う想いもないのです。何もない。これが道元禅師が「脱落身心、身心脱落」と言われたところの境地なのです。脱落身心、身心脱落というのは、身も心も脱けて落ちたということです。

身体もあるという想いがなくなり、心もあるという思いがなくなり、何も無くなってしまうと、本来清浄のもの、本来自由のものがあらわれて来る。そこに本当の開放された本当の実相の自分というものが出てくるわけであります。

(谷口雅春先生の講演より)

2 件のコメント:

  1. こんばんは、週も変わり遅いお訪ね失礼します。ちょうど金曜日は少し具合いが悪く寝込んでいました…懐かしい松山のお話、素敵な一言。元気を頂きました、ありがとうございます!

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  2. maruru 様

    こんばんは。ようこそおいで下さいました。あなた様のお優しいお心が遠花火のように甦ってまいります。朝晩の寒暖の差が、体調を崩す原因にもなっているようです。風邪を引いている人がボクの周りにもけっこうおられます。低気圧がやってくると、頭がふらついたり、不整脈が出たりする方も。そんな時は、お部屋にお香を焚いて、心を静め腹式呼吸をしながら、人生の中でとりわけ幸せだった頃のことを思い出すのです。

    暗い想念を取払い、明るい思いを全身に充満させれば、少々の病気なら即退散してしまうでしょう。『もしあなた方が悩みを解消したい時は、端座して実相(人間の本来のすがた)を観ぜよ。諸々の罪や魔が事は霜露のごとし、慧日よく消除す』、と如意寿量品にあります。心を穏やかに清浄に保って頑張って下さい。

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