花一輪・恋の笹舟(二十一)
仏説摩訶般若波羅蜜多心経
「故説般若波羅蜜多呪、即説呪曰」
『それでおスミ婆は今どのように・・』順心は辛うじて喜一に問うた。『さきほど駐在がやってきて、詳しくしらべています。病院に運んで行って、死因などを確認するのだと・・・』
『喜一さん、すぐこれからおスミ婆の家に行こうぞ。一緒してくれるかな?』『もちろんですじゃ』『それでは、しばらくそこで待っていてくれるか』。
そう言って順心は、正月の托鉢の装束に身を包み老院主から授けられた「菩提樹の数珠」を持って、庭に下り立った。谷底から吹き上がってくる風に小さな雪片が混じって、厳しい冬の寒さに全身が引き締まった感じがした。
おスミ婆の住まいは、小さな二つの部屋で出来ている。竈(かまど)と台所の横に四畳半、そして卓袱台(ちゃぶだい)を置いた六畳の間。仏壇が部屋の隅の方に置かれてあって、供えられている仏花が、まだ開かない蕾を付けている。おスミ婆が日々に畑で世話をしていた花であろう。
貧しい着物と野良着が竹の衣装掛けに吊されている。土と陽の匂いが微かに感じられる。しばらくしていると、村の男達によっておスミ婆の亡骸が運ばれてきた。自殺ともあって、そう難しい調べはなかったようだ。
表には村人たちが集まってきた。部屋の真ん中に布団が敷かれてある。男達がそこに静かに遺体を寝かせた。それは小さな身体であった。周りの年寄り連中のなかには目頭を押さえて泣いている人もいる。
順心は顔をそっとあらためた。深いシワが刻まれた額は日に焼けていた。喉の部分に白い包帯が幾重にも巻かれて、自殺の跡を隠しているのが余計に悲しかった。粗末な掛布団で遺体を覆い、死に顔には白布をかけた。
順心はしずかに般若理趣経を誦える。野良で作業をしているおスミ婆の、あのはにかんだような笑顔が浮かんでは消える。いつも自分の前に跪(ひざまづ)いて手を合わせたこの小さな身体が、哀しくも愛おしく感じられて、経を誦える順心の胸を激しく揺さぶってくるのだった。
☆ ★ ☆
【庵主よりの一言】
故説般若波羅蜜多呪、即説呪曰(こせつはんにゃはらみったしゅ そくせつしゅわつ)
過去・現在・未来という三世を、あなたはどう生きるか。輪廻転生を、どう生きねばならないか。智慧の宝庫は、どうやったら開かれるか。そして、光明ある彼岸に到達するには、どうするべきか。
すべては般若波羅蜜多の神理を説き、実践することにつきると言っているのです。
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