花一輪・恋の笹舟(十七)
仏説摩訶般若波羅蜜多心経
「三世諸仏、依般若波羅蜜多故」
久遠実相寺に戻ってのちしばらくは、順心はその行脚の日々の出来事を夜遅くまでかかって書き残した。自分の心の中に強烈な印象を与えてくれた人・事・所について出来るだけ具体的に記録したのだ。それはこれからの人生や修行にとって何を為すべきかを知るためでもあった。
季節はもう秋から冬に移ろうとしている。丹波の地に戻ってはや一週間が過ぎた。順心は一人静かに朝の勤めを果たしていた。今日こそ、紅葉谷の寂夢庵に春禰尼を訪ねようと心に決めた。
道中、しっかりと抱きかかえるようにして持ち帰った伊予絣の作務衣。これこそ順心が生まれて初めて買い求めた女性に対する贈答品であった。これまで女性より愛を受けたのは、若くして亡くなった彼の母一人だけであった。
それ以外は自分から愛を与える事もなかったし、まして母以外の女性から愛される事もない、ある意味、悲しい青春そのものでもあった。そして50歳を間近にした一人の男として、それは今も何ら変わらない。
その自分だけに課している“掟”が、いままさに破られようとしている危うさを感じて、順心は頭(こうべ)を強く振った。しかしその念(こころ)はとどまるどころか、一層激しく燃え上がっておのが身を焦がし始めたのである。
冷たい初冬の風が谷筋を越えて吹き上がってくる。身支度をして山門を出でた。キジの番(つがい)が道を横切って、林の奥に走り込んだ。そのキジを見つめながら、これまでの自分の人生の余りにも淡色な儚さを感ぜざるを得なかった。
一足ごとに経を唱えながら、道を下っていく。山の中腹に雲が白くかかっている。風がその雲を吹き離すように流れている。それでもまた雲は湧き出て山腹を舐めるように駆け上って行く。雲と風と山との鬩(せめ)ぎ合い。
まるで人生の縮図だ。色即是空、空即是色。何もないのか?いや何もないと見える空間に、全てが結実して満ち満ちている。無一物中無尽蔵、無から有を生じ、そして最後は全てを捨ててこの世を去る。
声字即実相、この世は全て鳴り響く仏の願いで出来上がっている。山川草木国土悉皆成仏、有情非情同時成道・・・・順心の胸の内にはもう迷いはなかった。ただそのままでありたかったのである。
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【庵主よりの一言】
三世諸仏、依般若波羅蜜多故(さんぜしょぶつ、えはんにゃはらみたこ)
過去、現在、未来という三世における、悟りを開かれた方は、輪廻転生の課程で体験した人生の価値ある智慧の宝庫の扉を開かれた方々です。という意味ですね。
仏とは「ほどける」であり、「解放」「解脱」という意味であります。こころが解放され、何にもとらわれなくなったとき、人は「悟った」と言うのでしょう・・・か? これが判るまで、輪廻転生を繰り返さなければならないのか?
煩悩を取り去り、あるがままに生きる、ということは私には全面的には出来ないにしても少しは出来そうだ、という心境になれる年齢に私もなってきたように思えます。有難いことだと日々感謝しています。年寄りというのは有難いものです。
返信削除こんにちは、maruruです。こちらは強い雨風が通り過ぎました。三世の悟りには遠く及び尽きませんが、昨日今日明日くらいは健やかで穏やかに過ごしたいものです。
返信削除小川 洋帆 様
返信削除こんばんは。 素晴らしいご心境、いつも尊く拝見しています。煩悩即菩提との佛教の教えもございます。どちらも本来「真如」であるとの現実肯定的な大乗仏教の教えであります。
煩悩があるからこそ菩提の境地にたどり着く事が出来る。そう考えれば有り難いことでありますね。
maruru 様
返信削除こんばんは。台風は事もなく過ぎて行きました。有り難いことでした。昨日今日明日、この連続が「久遠の今」すなわちEternal Now.なのでしょう。今の連続が人生そのものであるとするなら、今の心や行いが未来を決定するとも言えますね。貴女のそのお気持ちが、きっと健康と幸せを招来することでしょう。有り難うございました。