花一輪・恋の笹舟(二十)
仏説摩訶般若波羅蜜多心経
「是無等等呪、能除一切苦、真実不虚」
新たな年が明けて、ここ久遠実相寺にも初春の陽光が射し込んでいる。村の檀家から餅や酒の寄進があった。本堂には正月の飾りなどが掛けられて、一年で一度の華やかさを見せている。
初参りの参拝客が朝から訪れている。順心は庭に火を焚いて、お詣りの人々に甘酒を振る舞った。冷たい丹波篠山の寺の境内にも、パチパチと木の爆ぜる音がして、人々の明るい笑顔が嬉しかった。
四日の朝より、今年最初の年始の托鉢に出掛ける準備をした。四国行脚から帰って、春禰尼のもとへ伊予絣を届けに行った際に、尼からもらった手縫いの手甲脚絆を取りだして合掌の手の間に挟んで経を唱えた。鼻孔を擽(くすぐ)る白檀の香りにまたしても尼の顔が思い出されてきて、順心は畳にはたと手を突いてひれ伏した。「色即是空、空即是色、五蘊皆空と照見す!」雷のような声が聞こえてきた。
その時、寺に駆け込んでくる人影が見えた。中山喜一である。冷たい空気の中で白い息が煙のように立ちこめている。境内に走り込んできて、縁石に体を預けて深呼吸をした。
『和尚さぁん、おスミ婆さんが・・・』そう言って喜一はがっくりと肩を落とした。『おスミ婆がどうした?!』順心は履きかけの具足をおいて庭に下りた。喜一が顔を上げた。一筋の涙が頬を伝っている。
『今朝、おスミ婆さんの家の前を通りかかったのです。でも婆さんの姿が見えん。虫の知らせとでもいうのか、そこでいて見て母屋の婆さんの部屋の障子を開けたんじゃ』
順心は黙って次の言葉を待った。『おスミ婆さんは・・・おスミさんは、鴨居に腰ひもを掛けて・・・』そういったきり喜一は泣き崩れた。おスミ婆が自殺をした。順心は信じられなかった。毎日畑に出て日が昇る頃から、夕方までただひたすら野菜を作り、御仏に手向ける花を育てていた心優しいおスミ婆が自らの命を絶ったのだ。
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【庵主よりの一言】
是無等等呪、能除一切苦、真実不虚(ぜむとうどうしゅ、のじょいっさいく、しんじつふこ)
是大神呪とは、これこそ大宇宙を支配している大神霊の神理であり、是大明呪である。すなわち、これこそ大神霊より与えられている大光明の神理であり、是無上呪であり、つまりこれ以上の神理はないということです。
能除一切苦、真実不虚とは、良く一切の苦しみを、人生の生老病死を原因として生ずる苦しみを除き、真実であって、偽りではない。ということなのです。(高橋信次著、原説般若心経より)
私もおスミ婆さんのような一人暮らしで熱心に農作業をしているお婆さんを知っています。何の不足も無いようないつも穏やかで明るく親切なお婆さんですが、ひょっとしたらおスミお婆さんのように心中では自殺もしかねいほど絶望しているのでは、とフト心配になってきました。人間の心の中は他人では覗くことが出来ない多様な思いがあるのかと、心配になってきました。
返信削除小川 洋帆 様
返信削除お早うございます。いつもコメントをいただき有り難うございます。ボクがまだ青年だった頃、後輩が自らの命を断ったことがありました。いまでも彼の事を思い出します。彼を救い得なかったことに、自分の非力を思い、ただご冥福を祈るのみです。