2013年7月17日水曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・蓬莱渓谷の一夜(其の二) <標高 676m>



【有馬郡 蓬莱渓谷の一夜】

       登場人物:英国の実業家 クリフォード・ウイルキンソン
                                      :蓬莱渓谷に庵をむすぶ山家の男


<クリフォードは、山家(しゃんか)の主人にすすめられるまま、酒を胃の府に流し込む。まさに五臓六腑に染み渡るとはこの時、この事を言うのだろう。ワサビの漬け物を口に運ぶ。シャキッとした歯ごたえ、鼻の奥にツンと抜ける谷葵(わさび)の精。薄めの仕込み醤油との取り合わせが絶妙の味を出している。

<後は独酌で酒を呑む。なんという酒なのか、今まで呑んだ事のないしろものだ。無造作に置かれている一升瓶にはなんのラベルもない、スッピンの酒だ。だが決して『どぶろく』ではない。燗をしている、だからそれは確かだ。>

(ク)『ご主人、このサケ、グドテイストですね』

(主)『ああ、ワシが作ったのじゃ』

(ク)『お酒もハンドメイドですか?サプライズです、驚き

    ました』



<湯飲みに三杯ほど呑んでクリフォードは結構良い気分になった。山家の主人は、囲炉裏の中に大きな金網をおいた。そこでシシの肉(み)を炙(あぶ)るのである。竹で出来た長尺の箸を使ってその上にシシの肉をのせていく。>

(主)『それ、それ、もそっとこっちゃにも、それ』

<並べられたシシの肉(み)は、ジュウ〜ワッと音を立てて、奴が駆け回っていた山野の空気を一気に放出したかのようであった。有馬郡、蓬莱渓谷の夜は、静かにそれでいてひときわ濃密に更けていく。

山家の主人が竹の箸で、一、二度ひっくり返しながら、素焼きの皿にそれをのせてくれる。ボッ、ボッと青白い炎を纏いながら、シシの肉(み)は獣の匂いを漂わせ、まさに今が食べ頃だと語りかけているようだ。少しの粗塩を使えと主人がいった>

(主)『さあ食べんかいね。よう脂がのっとる。これは雌

   (めん)のシシじゃで〜な』

<熱々のシシの肉を頬張りながらなにか言おうとしたが、熱いのと美味いのとで言葉にならず、クリフォードはヨダレを零(こぼ)した。>


(ク)『コンナニウマイニク、ウマレテハジメテデス。       
               ファーストイクスペリエンスです。初体験ですよ』


<それはお世辞でもなんでもなく、掛け値なしの感動であった。>



(主)『客人よ〜お、このシシはな、撃ってすぐその場で捌



 (さば)いたのじゃ。仲間と二人じゃったで、お互いにえ


  えとこを取りおうてな、残りはそやつが村の市へ持って

  いったのじゃよ』
  

<一般に手に入るシシの肉は、大抵その残りものだそうな。猟師連中が手にする肉が、最も美味いところだと主人は言った。>

<酒がすすみ、かなり酔いが回ってきた。クリフォードは手洗いに立った。>



(ク)『失礼ですが、トイレ、ああ便所をおかりします』



(主)『そこを出て、左じゃ。汚いぞ、驚くな』



<主人は便所の方に向かって手の甲をふった。用を済ませたクリフォードは、筧(かけい)から流れ落ちる水で手を洗う。それは身を切られるような冷たさである。手で受けて少し飲んでみる。酔いにほてった体の中に、凍(し)み通っていく感じがした。>



(ク)『ああ〜、外はもう霙(みぞれ)まじりの雪になっ

   たか。この分では、蓬莱山はきっと吹雪いていること   
   だろう』

<囲炉裏の部屋に戻ったとたん、眼鏡が曇って一瞬なにも見えなくなってしまった。>


2 件のコメント:

  1.  世捨て人のような生活を送っている山里離れたところに住んでいる人が、狩猟の成果の肉の一番うまい所を食べて、あとは世の中に売る、という案外豪勢な楽しみを持っているのですね。うまい酒が自分で作れればもう何も要りませんね。一体どいうう人物なのか気になります。

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  2. 小川 洋帆 様

    こんにちは。

    今でもイノシシの肉は、どうやらそんな感じの流通があるようです。
    ボクが四国にいた時も、鉄砲撃ちの友人の話では、美味しい部分はしとめた猟師の取り分だそうです。

    何度か彼がしとめた肉を頂いたことがありました。ではまた。

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