2013年11月15日金曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・花一輪 恋の笹舟 <標高 798 m >



花一輪・恋の笹舟(二十六)

苦諦(くたい)・病苦(びょうく)

順心はおスミ婆の万中陰の法要を済ませて後、冷たい粉雪混じりの風の中を紅葉谷へと向かっていた。春禰尼が自分の為に作ってくれた手甲脚絆の礼もまだ言えずにいる。

どうしても今日、寂夢庵を訪ねて尼に礼を言って帰るつもりで寺を出てきていた。この谷間の地では冬の夕暮れはないに等しい。暮れかけたその時がもう夜になった。

寂夢庵を訪ねたのは5時を少し廻った頃であっただろうか。谷間の奥に庵を結ぶ尼は、さぞ独りで心細いことだろうと思った。しかし御仏に仕える身、そのような気持ちは微塵もみせてはいない。

その時ふと、春禰尼にもらった結び文の和歌が思い出された。それにはこうしるされていた。『朝まだき紅葉の渓に散る葉さへ水に浮かびて流れしものほ』この歌が真に言わんとしていることは何であろうか。

春禰尼の半生とはどのようなものであったのだろうか?この地に住まいをするまでの尼の人生とは・・・。

薄暗い土間に入って、尼を呼んだ。しばらくして灯りを持った春禰尼が近づいてくる気配がする。その姿は御仏に仕える日々の行で磨き上げられた心身の清らかさの上に、もういちまい気品という御衣を纏っている。

『尼様、突然参りましたことお許し下さいませ。今日おスミ婆の万中陰の法要を済ませました。その帰りに立ち寄らせていただきました』瞬きもしないでじっと聴いていた春禰尼の頬に、微かな色がさした。

☆  ☆  ★

【庵主よりの一言】

苦諦(くたい)・病苦(びょうく)

病にふせることの苦しみーー病苦

この世はつねに 燃えさかるを 何の笑い 何のよろこびぞ

 おん身は いま幽冥(やみ)につつまれたるに 何ぞ光を求めざる

(法句経 一四六)



どんなに元気な人でも、歳をとると病を得ます。病気をしてそこから”病気の持つ功徳”を自覚した方もおられます。また病気を得たら、病気三昧になれと教えてくれる方もおられます。



病気に立ち向かって闘うよりも、すなおに受け取ることで恐怖心から解放されて、精神的な安らぎを得られるようです。この法句経の言葉はそのような心構えを教えているのです。このように心が安らかになったとき、『病本来無し』の人間の『実相』を悟る事が出来るといいます。『現象に無駄無し』とは、このことを指しているのでしょう。

2 件のコメント:

  1.  病苦を受け入れるということですね、この境地がなかなか得られないのですが、確かに最近の医学ではガン治療の分野で、ガンの病を受け入れて焦った治療はしないという医者が出した本がベストセラーになっていますね。却ってその安定した心の持ちようが良い結果をもたらすことが多いようです。対立ではなく受容が大切だという庵主様の言葉が理解できるような気がしてきました。

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  2. 小川 洋帆 様

    こんばんは。病気=気を病む と書きます。メンタルな要素が大でしょう。ストレス性○○という病名は結構多いですね。心の悩み、気苦労が消えてしまえば80%以上の病気は改善もしくは完治するだろうとの研究結果もあるようです。ボクは『日時計主義』で生きることを実践しています。明るい、積極的な方向を見つめて生きる、すなわち日時計のような生活法です。ではまた。

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