2013年11月27日水曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・リーフノベルス <標高 808 m >

【水底の鎮魂歌】(みなそこのレクイエム)

庭先では犬や猫も子ども達とじゃれあい、菓子をもらった
男の子も女の子も丸坊主とおかっぱ頭で参加している。谷の奥からやってきた鍾馗さんが、大きな山女魚を魚籠(びく)から出して手伝いの女学生(地元の高校生)に渡している。

なにしろ土佐の「いごっそう」どもは、酒が滅法強い。都会に生きる若者のようにネオンの下で遊ぶ事もない。まして競馬や競輪も知らない。野良仕事や家畜の世話を終えて、風呂に入った後することと言えば、酒を飲みそして明日のはえ縄作りに精を出すことしかないのだ。

大きな絵皿に山海の珍味が並べられている。これが伝統の皿鉢料理である。酒は地元の銘酒、土佐鶴・司牡丹、地酒、そして母屋にて仕込む濁酒(どぶろく)が並んでいる。主に山菜料理だ。畠で採れた野菜、山で摘んできた果実、前の川で漁(と)ったウナギ、麻柄(アサガラ・すなはぜ)、ゴリ、八目ウナギ、ハエジャコ、ギギ、ウグイ、とっておきが鱒の活け造りなどが並んでいる。

ウナギは特に川の瀬に棲むのが旨い。それも腹が薄黄色のゴマウナギが絶品である。なかなか獲れない代物ではある。今日は、それが数匹並んでいる。一匹ままの蒲焼きである。

みんな料理を食い、酒をのみ、楽しい時間が過ぎていく。庭の桜もそろそろ散り始めている。山からの水を引いた池に養殖している鱒が一際勢いよく撥ねた。

その時森岡岳人が直衛爺に向かい『長老、そろそろお話しを』『よかろう、みんなも準備できちゅうか』。そう言って直衛爺は正面を見据えた。この話しが我々のこれからの生活に重要な手がかりになるのである。毎回そうであった。そこには生き字引としての年寄りの経験と智慧が息づいている。

『きょうは、川の事を話しておこうわい。吉野川の本流のことじゃ』。みんなの目が一様にひかる。ここいらの若い衆は、地元の支流で魚を獲る、なかなか本流までは行かないのだ。ところが今日の爺の話しはその本流だというので興味津々である。

『あれはワシがまだ30そこそこの頃じゃった。亡くなった親爺に連れられて、大豊の近くの川に漁に出掛けた。それはまっこと暑い夏の日ざった』。鍾馗さんが、爺に酒を注いだ。それを一気に飲み干して又話しが続く。

『あの辺りはな、急流の上に、けっこう蛇行して流れておってな、瀬から一気に深い淵に落ちこんでいくちゅう場所が何ヶ所もあるんじゃ、地元の漁師もそこは危険地域として舟の操作にはことのほか気をつこうちゅう・・・』。座の中から聞こえるのは、黙々と酒を酌み、飲み干す音のみである。

『親爺がある深い淵の岩陰に舟を繋いでな、こう呟(つぶや)いた。忘れもせん、それはまっことおぞましい言葉じゃったぜよ』

『直衛よ、お前の婆さんはなもうだいぶ前のことじゃ、大雨の降った日に川の傍で舟のロープを括(くく)りよってな、足を滑らせ流されたんじゃ。ほいで今も遺体はあがらん・・・行方不明のままじゃ』

『なぜか親爺は自分の母親の悲しい事故を話してくれたんじゃ。それから、ワシの目を見てこう言うた。この辺りは漁師仲間では鎮魂の淵(みたましずめのふち)と言われておる場所なんぜよ』とな。その時、直衛爺は庭の桜の木をじっと見ながら一杯の酒を手に、亡き祖母の霊に手向ける様な仕草をした。直衛爺の目には、魂が今、この庭に還ってきているのが見えたのであろうか?


【庵主の短編読み物(リーフノベルス)より】明日も続きます(2

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