【花一輪・恋の笹舟(六)】
仏説摩訶般若波羅蜜多心経
「是諸法空相、不生不滅」
自分が不在の間に村人に何があるやも知れない。万一の場合、通夜の枕経や、葬儀には有り難い経などを手向けねばならない時が有るかも知れない。そのお役目をお願いしておきたかったのである。
寂夢庵はまことに質素な小さな庵(いおり)であった。紅葉谷という地名通り、山の奥の細い谷間にその庵はひっそりとつくられている。枝折り戸があって、小さな手水場が入り口に置かれてあった。その水盤の中に幾片(いくひら)かの真っ赤なモミジが浮かんでいる。そこは静寂そのものの谷陰の庵(いおり)であった。
順心は枝折り戸を押して、一歩庵の庭に足を踏み入れた。晩秋の日暮れは早い。奥の山にはもう陽のかけらも残ってはいなかった。小さな鳥たちが周りの木の間を飛び交っている。彼らも間もなく訪れるであろう冬の準備に細々(こまごま)と忙しいようである。
杉の戸を静かに押した。そして網代笠を少し上げて彼は声を掛けた。奥の方で人の動く気配がしている。しばらくすると、春禰尼の声がした。
『これはこれは順心様、このようなむさい所へ。如何なされましたか?』『ああ尼様、ご無沙汰致しております。順心今日は、少しお願いがあって参りました』『お願いでございますか、はて何でございましょう』。そう言って、春禰尼は傍らにある座布団をすすめた。もう陽が落ちて、寂夢庵の土間は暗かった。春禰尼は小さな行灯(あんどん)を引き寄せて灯りをいれた。順心は、尼の横顔にほんのりと紅が挿したように見えた。
『尼様、実は私しばらく旅に出ることに致しました』『旅に・・・?』『はい、老院主の十三回忌も過ぎました。そこで一度老院主の故郷を訪ねようと思いたちました』『どちらまで』『はい、伊予の松山です。まだお寺も残っておりますので』『左様でございますか。それで私に願いとは?』
『私が留守の間に、何か事がおこりました機(おり)、何とぞよしなにお願い致したく』『私めが、順心様に成り代わってお経などを・・』『はい、それをお願いにまいりました』
もう外はとっぷりと日が暮れてしまっていた。その中で順心と春禰尼は、ただじっと向き合って座っていた。はっと我に返った順心は、再び深く背をまげて、春禰尼に拜礼をした。行灯の灯りが一筋障子にゆれて影を濃くした。その時、春禰尼の衣の摺れる音を聞いた。