【花一輪 恋の笹舟(五)】
仏説摩訶般若波羅蜜多心経
「受想行識、亦復如是、舎利子」
おスミ婆が今日も畑で野良仕事をしている。あぜ道を大股で登って行く。真っ赤な彼岸花がそこかしこに湧き出る様に燃え盛っているのが目に痛いほどだ。
『お手を止めます。お許しを』『まあ、順心様、今日はまた何事で』。と伸びない腰を精一杯伸ばしておスミ婆は順心を眩しそうに眺めた。そして膝を折って草の上に跪(ひざまず)いた。もう仏を拝む感じで順心をひたすら見つめている。
『おスミさん、拙僧はしばらく旅に出ます。老院主の故郷、伊予松山までな』『順心様、伊予松山言うたら、海をこえますのか?』『よく存じているな。そう
ここからなら、海を越えねば行けません。でも老院主も昔青年の頃、海を越えてこの村にやって来られたのです』。
『そうでしたな、老院主様の若々しいお姿が婆の心の中には、今もはっきりと残っております・・・』そう言って、おスミ婆は汚れた野良着の袖でそっと瞼を押さえた。白髪頭についた小さな土くれや病葉(わくらば)がはらりと落ちて風に運ばれて消えていった。
一軒ずつ、村の家々を巡っていく。滅多に顔を合わさない人もいたが、順心は丁寧に仏壇を回向し、それぞれの近況を聞き、悩みの相談も受けた。順心が老院主の故郷を訪ねると聞いて、お布施を包む家もあった。
その都度礼を述べ、その志を感謝して受けた。小さな村である。全てを廻っても35軒の在所であった。順心は最後に紅葉谷へと足を伸ばした。
そこには、寂夢庵に御仏を安置し日々経を手向けている春禰尼がいるはずであった。順心は今日の終わりに、どうしても尼に話をしておかねばならない事があったのである。
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