2011年12月3日土曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・聖書に学ぶ <標高213m>

「ぶどう園の労働者」のたとえ

マタイによる福音書、第201節~16

「それで、受け取ると、主人に不平を言った。“最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは”主人はその一人に答えた。“友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」11節~14

このたとえ話の視点をどこに置くのか?
 不公平だと思うのか。
 天の国のたとえ話で、神様と人間の間のたとえ話としてイエスはその関係を問うておられるのだとみるのか。
 私達人間の側が、余りにもその話が当然ですねと言ってしまうと、聖書が教える恵みやあわれみではなく、ただの報酬に対する考え方になってしまう。神と対等の関係になってしまう。見返りとして私を祝福してもらいたいと思うのは本来おかしいことなのであります。

話は変わりますが、旧約聖書の中にヨブという人が出てきます。ヨブは信仰熱心でありましたが様々な試みにあって、何もかも失っていくのです。

聖書には、祈っていても道が拓かれず、試練に会うことがあると書いてある。しかしその試練を通じて道が拓かれて人生が、明るくなるとも書いてあります。

神と対等、もしくは上に立つ、神をロボット化するのが人間の弱さと性(さが)であります。

ふさわしい賃金を支払う、あとから来た人も、神様にとっては大切な人なのであるから、お金を支払うのであります。

「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」15節~16

ここは神様の人間に対しての思いが込められている言葉であります。それは信仰歴の長短ではありません。考え方によっては神様は不公平であります。それは人間の側からみての話です。しかし神様は平等なのです。

受け取る側が平等、不平等を感じているだけなのです。神様は平等に一人一人に愛を与えておられるのに、受け取る側はそうは思わないのです。神様に生命(いのち)を注がれていることを感じた時、神様に今まで以上の愛と献身を感じるものであります。

ふさわしい賃金とは、その人にはふさわしい見返りを与えて下さるということなのです。神様の人間に対する思いとは、バラエティー、多様性なのでしょう。

神様の前にあっては、どんな人でも同じレベルです決して上下はないのです。働きの違いはあっても同じなのです。朝早くから来た人にも平等なのです。

神様は私達人間を、生きている間にも祝福を与え、いろんな働きを委ねておられます。そして人間の側の資格などが条件ではないのです。それは一切関係ないのです。

<今日の心に残った言葉>
一所懸命奉仕する方を神様はもちいて下さるのは当然でありますが、天国においてはそれすらも全て平等なのです。「神の御前においては、全ては平等である」のです。

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