2011年12月22日木曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・言葉のアーカイブス <標高232m>

im P・Story


ありそでなさそな・なさそでありそな・お話


「花厩舎一馬(はなきゅうしゃかずま)の一日」より

平成20年ももう半ばの月を迎えようとしていた。ある大会社のシステム部の担当課長を拝命している花厩舎一馬、なんとも遊び心満載の名前である。

今日は五月最後の土曜日、本来なら会社は休みであるが、6月末の株主総会に向けての資料整理のため朝から出勤してきたという訳だ。大都会のビジネスゾーンも土曜日のためか人通りは少ない。36階の事務所に入って、周りの景色をみて少なからず驚いたのだ。

神宮の森の緑が萌えるように目に鮮やかである。いままでこんなにゆっくりと自分の席から外の景色を見たことはなかった。日常の業務は朝から晩までパソコンとの対面ばかりで、春の桜の景色も落ち着いてみないまま、もう6月を迎えようとしていたのだ。

インスタントコーヒーを啜っていたとき、ドアーが開いて隣の課に一人の女性の姿。北欧エリア営業部に所属するS嬢が出勤してきたようだ。休日出勤とて、普段のフォーマルな服装ではない。細身のジーンズに、薄手のジャケットを着ている。そして紙で
くるんだ花束を一つ手に持っている。ちらっと見ただけだが、ピンクのバラの花が見えた。
『課長、お早うございます。お忙しいのですね』と彼女のデスクから声がした。
しばらくすると、小さな花瓶に挿したバラが花厩舎のデスクの隅に置かれた。

『おおっ、綺麗だね。モーツアルトかな・・・』『よくご存知ですね、今朝お庭で咲いていたので・・・』とS嬢は言った。『土曜日くらいゆっくり休まないともたないぜ』『課長にそのお言葉をそっくりお返しいたしますわ』と言って笑った。襟元から微かにバラの香りがした。 

広い大きなフロアーにチラホラと仕事人間の姿が増えてきた。やはり土曜日、普段あれほど鳴り続けている電話が沈黙している。花厩舎はこの静寂さが好きで、たまに休日に出勤するのである。そうこうする内に正午になった。その時S嬢が近づいてきた。『課長お食事ご一緒しません?』『ああ、もうそんな時間か、じゃあ外にでるか』そう言って二人は高層ビルから、新緑で噎(む)せかえる地上に降り立った。

『北欧風のレストランが、先週オープンしたの。行ってみません?』『そりゃいいね、お願いするよ』二人は少し歩いて、大きな樫(かし)の木のあるレストラン「プレミアムオーク」に入った。土曜日の昼時とてけっこう混んではいたが、S嬢は奥のテーブルに進んだ。レストランの女性アシスタントに軽く会釈をして、花々の咲く小さな庭が見通せるテーブルについた。

『まだオープンして間がないのだろう。なのによく知っているね』『さっきの方、私のお友達なの。フランス語の教室でご一緒』『フランス語、習ってるの?』『ええ、言葉のなかで一番好きなの、だから』

先ほど擦れ違った女性のフロアーアシスタントが近づいてきた。なにやら二人で話していたが、どうやら今日のランチメニューの確認だったらしい。

その時、S嬢が花厩舎の目を見てそっと聞いてきた。『日曜日、日本ダービーですよね。課長のお薦めの馬、お聞きしたいわ』『そう言われてみれば、ダービーだったな。忘れていたよ』『3才のお馬さんにとっては、最高の競争なんですって?』と目を輝かせて話すS嬢は、もうすっかり競馬ファンのそれであった。

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