2011年12月10日土曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・言葉のアーカイブス <標高219m>

ボクはお約束を違える事を、人生の恥と心得ている一人であります。ブログステージにてお知り合いになった、Nちゃんのいつぞやの記事に、事もあろうにComment with Promise(約束付コメント)を書いたのです。

それは、Nちゃんの「山中渓行」の記事の中に、日本最後の仇討ちの史跡が遺っているとの内容が書かれていました。是非その仇討ちの「事の顛末」を書いて見たいと考え、少々のお時間を頂いたのでした。

しかし調べてみると、当時の資料がとても少なく、ノンフィクションとして書くことの困難さを感ぜずにはおれませんでした。そこで史実に基づきながら、ボクの推測も交えドラマ仕立てにしてみました。お読みいただければ嬉しい限りです。

阪和国境、日本最後の仇討ち顛末

大阪府泉南市「山中渓」、JR大阪再南端の山中渓駅。ここは和歌山県と大阪府の県境にあたる場所である。泉南アルプス、熊野街道の起点でもある。

時は安政四年、今から154年前(1857年)、土佐藩士広井磐之助の父広井大六は、同藩士棚橋三郎と藩政の今後のあり方について話をしていた。季節は梅雨があと僅かで明けようかという蒸し暑い午後であった。

些細なことから口論になり、お互いに激高していた。外に降る雨が雷鳴とともに一層の激しさを増したその時、棚橋三郎が突然片膝をついた。それは厠(かわや)に行く風でもあったが、その時広井大六はただならぬ殺気を感じて身構えたのである。

さすがに棚橋も驚いたが、受けて立った。一瞬の切り結びの後広井大六がどうっと膝から崩れ落ちた。三郎の思いもよらない白刃の一撃が袈裟懸けに打ち下ろされたのであった。それは出会い頭の事故のようなものであった。

畳を朱に初めて、広井大六は絶命した。ここからこの話は幕を開ける。その日以来、父大六を斬った棚橋三郎の行方は杳として知れなかった。大六の息子広井磐之助は、嘆き悲しむ母の憔悴しきった姿を見る度に何としても父の敵(かたき)をこの自分の手で討たねばと、その気持ちは日に日につのっていったのである。

磐之助は今まで以上に剣の修行に励み、その腕を上げていった。その頃磐之助の相手になれる若い藩士は、土佐築地片町、車瀬橋あたりには見あたらないほどであったという。これは坂本龍馬も認めていたのである。

(明日に続きます)


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