で、一体ここへ何しに来たのかって? それはもう少しお話しすればお判かり頂けると思いますので、ここではまだ内緒にしておきます。 ところで庵主先輩、覚えておいでですか?
昨年、黒姫高原のホテル・アプルーゼでの事。ほらフランスはパリ、カルチェ・ラタンからやってこられた吉岡 泊(とまり)先生のことなのですが、ここアイスランドでお会いする事になっているのです。あの時は「マロニエの木蔭から」というタイトルの記事でしたが、今回はさしずめ「オーロラ・夢物語」とでもしておきましょうか。今、マドモアゼル・吉岡をお待ち申し上げている流(ながれ)めにございます。ごめんなさい。
今はサマーシーズン、ホテル・レイキャヴィーク・セントラムのガーデンには庭焚が優しい風に心許なく揺れています。と言っても今回の目的は、吉岡先生に会うだけではありません。れっきとした仕事を遂行するのは言うまでもありません。
通りを挟んで小さなショッピング・モールが見えています。いましもそのお店から一人の女性が現れました。真っ白いパンタレオーネがとっても眩しい。ジャケットはネイビーシルクの風遭(かぜあい)のコラボ。
この女性こそ、わたくし、流一平の尊敬するセルボンニュ大学の助教授、T・吉岡先生その人であります。もうそこまでやってきました。今日は珍しいバッグを持っておられる。いつものセリーヌではありません。私は立ち上がって手を振ってしまいました。周りの老夫婦が怪訝な顔をして私を見ています。
『先生、こちらですよ!』と日本語でお呼びしました。さきほどの老夫婦が、その言葉を聞いて頷きあうのが横目に見えました。言葉の響きで、日本人だという事がわかったのでしょうか?『こんにちは一平さん、お久しぶり』そう言いながら白い手を差し出されました。私はまるで宝物にでも触るように、先生の手を軽く握ったのです。もうこれだけで、アイスランドに来た甲斐があったと思うほど・・・でした、これは本音です先輩。
先生は黒姫高原のお出会いの時にも話に出ましたが、「クマムシ」を研究なさっておいでなのです。聞くところによりますとそれはとても不思議な生き物だそうで、どこの家の庭のコケの中にも棲んでいる微生物だそうです。
でもこの小さな昆虫のような微生物が将来の人類を救う事になるかも知れないと言うのです。まあ、私にはなんの事か分かりませんが、先進国の学者先生が競って研究しているのだそうです。『そうそう、クマムシだったわね。この子はどこにでもいるの。でもその実態の殆どは霧の中』『どこにでも? 私の周りにもですか?』私はこの時、マドモアゼル吉岡がその美貌にかかわらず、この得体のしれない「クマムシ」とか言う微生物を研究しているとはどう考えても理解できなかった。
『一平!本当に見たいのですか?』『もちろん!』『顕微鏡はお持ちですか?』『虫眼鏡なら・・・』『それは駄目ね。だったら私の古いので良かったら使って』『やった!でもいいのですか?』まるで子供のようにはしゃぐ自分に年甲斐もなく不思議な感じがした。私は黒姫高原のホテル・アプルーゼの夜を思い出していました。あの時はマロニエの木陰があった。今日は大きなドイツトウヒの木がそれに代わって私達を迎えてくれていた。
0 件のコメント:
コメントを投稿