2013年12月30日月曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・今年の自分賞 <標高 833 m >

【日本を代表する昆虫・ルリボシカミキリ】



今年ボクが撮影した昆虫写真の中で 雌雄一体になった珍しい写真がこれです その名もルリボシカミキリです

なかなか♂♀一頭でも見つけることが難しい昆虫ですが ちょうど交尾をしているところだったので上手く撮影出来ました 家の前のウッドデッキに置いてある薪束の傍にいたのです

来年もこの夫婦の子供が生まれて来るのを楽しみに 今年も終わる事に致しましょう 有り難うございました 

(庵主の日時計日記:自然と私)より

2013年12月29日日曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・金色の森 <標高 832 m >



光は東方から射し込んで 落葉松の森を金色に染め上げています 子供たちは朝早くからせっせと準備をして スキー場に出掛けて行きました

『どっこいしょ!』の爺さんと婆さんは 雪景色を眺めながら 落ち着いた年末を過ごしています冬の太陽は青空に昇り 大自然を隈無く照らしてくれています ここ新潟県妙高市は「白い街」になって 訪れる人々の心を癒してくれることでしょう

(庵主の日時計日記:心の内)より  

2013年12月27日金曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・花一輪 恋の笹舟 <標高 831 m >



花一輪・恋の笹舟(三十六)

滅諦・静める寂滅為楽(じゃくめついらく)


湧水郷にさしかかった。もうあちこちに菜の花が咲き出している。いずれ一面黄色くなっていくその菜の花畑の中に、誰にも見られる事なく、独り歩いて消えていった菜々子の魂は、春になれば必ずここに帰ってくると順心は今も信じている。

水辺のあのあたりに、菜々子が倒れていたと聞かされていたところに腰を屈めて、小川の水を掌(たなごころ)に汲んだ。そばに揺れている菜の花に水をかけてやった。キラキラと早春の陽を受けて水滴は菜の花の茎をつたって溢(こぼ)れていく。



小川の水面に菜々子の小さな顔が映って、こちらを見て笑った様な気がした。『菜々子また来るよ』そう言って腰を伸ばした。



紅葉谷の寂夢庵は長閑(のどか)な空気の中に陽炎(かげろう)を纏って揺れていた。小さな畑には春の野菜が芽を出している。春禰尼が世話をしているのだろうか。順心は中に入って声を掛けた。が、いつもの応対をする様子がない。やむなく草鞋を脱いで庵の中に上がってみる。



小さな庵である。奥の部屋の前で声を掛けてみた。その時なにかが動く気配を感じたのである。そっと襖をあけた。そこには粗末な布団をかけて横になっている春禰尼の姿があった。



『尼様、順心です。如何なさいました?』春禰尼は何も応えず苦しそうな息遣いをしている。順心はそっと、額に手をあてた。尼の体は高い熱で火照っているようだった。順心はすぐさま表にでて、冷たい水に濡らした手ぬぐいを持って引き返した。そして尼の額においた。



尼は高熱の為、意識が朦朧としているようだ。かすかに苦しく呻くような声が漏れて出る。順心は急いで再び外に出た。ここから少し離れたところに富子という婆さんが住んでいる。そこに駆け込んだ順心は、事情を話し、二人して庵に立ち戻った。



どうやら尼は風邪をこじらせたらしい。富子婆は若い頃産婆をしていたと聞いていた。産婆であっても人間の体の事は充分承知していると見えて、煎じ薬を作ったり、粥を炊いたりとてきぱきと動いてくれた。



その夜、もう遅くなった頃、春禰尼の意識は戻った。熱もほぼ下がったようである。今夜は富子婆がついていてくれるとのことで、ひとまず順心は夜道を寺に戻った。

菜々子の面影を見た湧水郷でのこと、春禰尼の病の場に立ち会い、なんとか大事に至らなかったこと。それらを御仏の前で心から感謝をしてお勤めを終えた。

その時、ふとあることが脳裏を過ぎったのだ。それは尼の姿の中に菜々子の幻を見たような気がした。不思議な早春の夜が更けていった。

★  ☆  ★

【庵主よりの一言】
滅諦(めつたい)・静(しず)める
寂滅為楽(じゃくめついらく)

孤独(ひとりい)の味、心の安らぎの味をあじわったならば、恐れも無く、罪過も無くなる、真理の味をあじわいながら。

(法句経 二百五)

2013年12月26日木曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・定点観測地 <標高 830 m >



この地点はボクが妙高山の季節の様相を知

る【定点観測】の場所です。12月のこの時

季では少し雪が少ないかなと思います。し

かし明日から三日間の降雪量は相当なもの

らしいので、この景色も一気に塗り替えら

れることでしょう。正面のスキー場は『池の

平温泉スキー場』です。

スキーに温泉に、美味しいものも沢山ありま

すよ。是非お正月は妙高山麓にお出掛け下さ

い。

2013年12月25日水曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・雪の花舞い落ちる <標高 829 m >



クリスマスの朝 樹に積った雪がはらはらと舞い落ちてくる 山頂にかかる雲は 疾風(はやて)のように南に向けて流れている

山小屋の前にある樅(もみ)の樹は 雪をしっかりと支えて仁王立ちと見える この道を少し歩いたところに畑を作っているが 雪に覆われて今は掘れない

イカルの群れだろうか 賑やかに鳴き交わして大ミズナラの木にやってきた 久しぶりの野鳥の姿に 命ある者同士の親しさを感じて手を振った 陽のあたる木々を選んでまるで「ひらがな」を書くように飛び回る姿は一幅の絵を見る感動ですらあった

(庵主の日時計日記:自然と私)より  

2013年12月24日火曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・バイスバルト <標高 828 m >

【バイスバルト・白い森】



クリスマス・イブの朝 森は白いマントを羽織った これからやって来る厳しい冬の風雪に立ち向かい またある時は薄い日差しの中で春を夢見ているかのように さんざめくのである

バイスバルトがシュバルツバルト(黒い森)に変った時そこには優しい春がやってくる 森と人間が同じ環境のなかでともに生きている

私にとって自然はまるで厳格な父親のようでもあり 母の胸の温もりでもある

(庵主の日時計日記:自然と私)より  

2013年12月23日月曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・花一輪 恋の笹舟 <標高 827 m >



花一輪・恋の笹舟(三十五)

滅諦(めつたい)・静める、生滅滅巳(しょうめつめつい)


順心はその手紙を読みながら泣いていた。無性に悲しくて言葉も途切れがちであった。院主はじっと聞いていて最後に一言だけ言った。



『順心よ、どんなに貧しい子であっても全ては御仏のお子じゃぞ、いつまでもその気持ちを忘れるでないぞ、全ての人と接する時もその気持ちが大切じゃ。この浮葉さんの手紙を大切にせよ』



順心はその時の院主の言葉を片時も忘れてはいない。この世に生きる総てのものは、御仏の慈悲心の現れであると思う。釈尊の言葉をじっと唱えてみる。


『山川草木国土悉皆成仏 有情非情同時成道』、それは我々にこう教えている。山も川も草も木も国土さえも、総てみな仏の成れる姿である。命あるものも無きものもそれらも同じく、あるべく姿に成っているのである、と。
『聲字即實相』(しょうじそくじっそう)とその言葉は続いた。寺の裏山に騒ぐ雑木と風の音も、まさに仏の言葉そのものであったのだ。それを「聴く」自分の心が何よりも大切であると知った。これは悟りというものかも知れなかった。

それを「悟り」であると思ったとき、そこにはまた「煩悩」の炎が巻き起こる。『煩悩即菩提』とその声は言った。順心は立ち上がって、下の村に行くべく衣服を整えた。
その時寺の庭に小さな女の子が屈んで遊ぶ姿を見た。走り寄って『菜々子!』と呼びかけたが、一陣の風が木の葉を巻き上げて小さな竜巻のようになって空高く運んでいった。

菜々子の魂が今、ここを訪ねて来ていたのだろうか。順心は胸に納めた袋に手を当てた。そこにはもう枯れてしまった花の輪と春禰尼がくれた結び文が入っている。経文の次ぎに大切な、自(おのが)宝であった。

『南無大師遍照金剛・なむだいしへんじょうこんごう』と唱えながら、谷筋の道を下っていく。小さな木の橋の袂に立って、おスミ婆の御霊に合掌、礼拝をした。おスミ婆がこの世を去ってより、もう三ヶ月が経過していた。誰もいない家屋は、風雪や雨に打たれて痛みが早い。誰かが住んでくれれば良いが・・・と思いながらその橋を渡った。

 見上げる空には、もう草ひばりの声がしている。今日あたり、紅葉谷の寂夢庵を訪ねて見ようと心に決めた。なにかしら足が軽くなったのは、早春の心地良いお照らしのせいだけではなかったのであった。



☆  ☆  ☆


【庵主よりの一言】

滅諦(めつたい)・静(しず)める、生滅滅巳(しょうめつめつい)



 愛欲に溺れず 憎しみを好まず

 善悪ともにとらわれざる 

 こころ豊かなる人に 悩みあることなし


 法句経 三九