2013年12月19日木曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・花一輪 恋の笹舟 <標高 824 m >



花一輪・恋の笹舟(三十四)

滅諦・静(しず)める、是生滅法(ぜしょうめつぽう)


菜々子が亡くなって二ヶ月ほど経った頃だった。久遠実相寺にも爽やかな初夏の風が吹き渡っている。院主がお呼びである。順心は衣服を正して院主のおられる部屋に出向いた。いましもお勤めが終わったところとみえる。



文机(ふみつくえ)の上に一通の手紙がのせられてある。院主はそれを手にとって順心の膝の前に置いた。その書状は、宛名が墨で書かれてあった。久遠実相寺内、順心殿と認(したた)めてある。院主はこの手紙について順心にこう説明した。



この差出人は、あの三月に降った雪の日に亡くなった菜々子の祖母であると言い、ここで開封して読むようにと言った。菜々子は、自分の前に突然現れ、知らない間に雪に埋もれて死んでいった薄倖の女の子である。その祖母からの手紙という事は、菜々子には母はいない・・・のか。祖母の手で育てられながら、旅芝居の役者達とどさ回りの生活をしていたのだろうか。そんな事を考えながら、手紙の封を切った。



優しい字で流れるようにその手紙はしたためられていた。順心は院主の前で声を出して読んだ。それにはこう書かれていた。

 久遠実相寺内 順心様

この度は突然お手紙をお届け致し、さぞ驚かれたことでしょう。どうかお許し下さい。わたしは菜々子の祖母、浮葉(うきは)と申します。菜々子はあの三月の雪の日に、突然行き倒れて死んでしまいました。私どもの前から名残雪とともに消えてしまったのです。

あの子が生まれてすぐ、母は亡くなって、父のいない菜々子はこの世に頼る者は祖母の私だけでした。普通の子ども達と違って、旅回りの役者の子、大人の中でいつも黙って遊んでいるだけでした。それは寂しかっただろうと思います。私もこの年でまだ舞台に立っているのです。なかなか面倒を見てやれなかったからです。

ところが菜々子に小さな喜びと言いましょうか、楽しみが与えられたのです。それがお寺に遊びに行くことでした。『どこへ行くの?』と声をかけますと、『お寺』と答えて走って行きます。粗末な服を着ておかっぱ頭を振りながら走って行くのです。

私どもも行き先がお寺なので安心致しておりました。ある日の事、菜々子が『はい、お婆ちゃん』と言って小さなポケットからなにやら出して私にくれました。それはビスケットでした。『お寺のお兄ちゃんにもらった』と目を輝かせて話すのです。

こんな菜々子を見たのは私も初めてでした。私は『有り難う、それは菜々ちゃんがお食べ』と言ってそっと返しました。菜々子はまた小さなポケットにそれを大事そうにしまったようでした。

 小さな手で、お寺の庭で集めてきたのでしょうか、糸と針をその花弁(はなびら)に通しておりました。誰に教わったのかは知りませんが一所懸命でした。私が『その花の輪どうするの?』と尋ねたとき、ちょっと下を向いてこう答えました。『お寺のお兄ちゃんにあげるの』

出来上がった花の輪を私に見せてくれました。生まれて初めて人の為に何かを作ったのです。順心様には、菜々子に優しくして頂き心から感謝申し上げます。あの子はきっと大切な思い出を抱いて天国に行ったと信じています。

今私は、九州の鹿児島に来ています。ここは私達の故郷です。小さなお墓を建てて、菜々子を眠らせてやりました。お墓の中に、菜々子の作った花の輪と、ビスケットを入れてやりました。本当に有り難うございました。菜々子に成り代わってお礼申します。

 菜々子の祖母 浮葉

★  ☆  ☆
【庵主よりの一言】

滅諦(めつたい)・静(しず)める・是生滅法(ぜしょうめつぽう)

 わが愚かさを 悲しむ人あり
 この人 すでに愚者にあらず
 自らを知らずして 賢しと称するは
 愚中の愚なり  (法句経 六三)

釈尊、チューラ・パンタカを諭す
 「チューラ・パンタカよ、白布はお前の手だけで汚れるのではない。お前の心のうつりかわりのせいである。心にたまる塵や垢のせいである。心はすぐに取り出して洗えないだけに恐ろしい。また自分だけではなしに、周囲のものをも汚し傷つけるから恐ろしいのである」と。

2 件のコメント:

  1. こんばんは、そちらはたいそう雪が深いのですね…
    こちらでも、今朝ちらほらと雪の花がちらつきました。

    とても難しい事なれど、「心は洗える」と私は感じています。たまる塵や垢が多い人ほど、洗えば、美しくなると信じています。

    ただ、傷つけた周りの人々を癒すには、計り知れない努力を伴う事でしょう…

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  2. maruru 様

    こんばんは。まさに夜を通して津々と降る雪であります。明日の朝は、50センチほど積っている事でしょう。
    仰せの通り、心は洗えましょう。知らず知らずのうちに、溜まった塵や垢が、本来の清らかな心を覆ってしまっているのでしょう。そんな時、御仏や神に心を振り向け、四無量心を行じた時、心は浄化され本来の相を取り戻すのです。それが「新生する」ことなのです。どうか「慈悲喜捨」の実践をなさって下さい。きっと素晴らしい未来が拓けるでしょう。

    ではまた、お元気で。

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