2011年9月30日金曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・言葉のアーカイブス <標高148m>


【流一平さんと京の老舗を訪ねる旅】


お香を聞く 香老舗 京都烏丸二条 松栄堂・その三

『あと、動物性の香料がありますよ』『動物性ですか?』『そうです。庵主さんもよくご存知の、竜ぜん香、これはマッコウクジラから採れる稀少品です。麝香“じゃこう”これはチベット高原に生息するジャコウ鹿・牡の香のうより採取するものです。あと貝香があります』『貝からも採れるのですか?知らなかったな』『螺属“まき貝”の蓋、中国南海、紅海に産し主に保香剤として用いるようです。現在は南アフリカのモザンビーク産の物も使われているとの事でした』

『いや〜、お香は奥が深いですね。驚きましたよ。私はホットウヰスキーに丁子を浮かべて飲んでいますよ。とっても良い香りがして最高なんですよ、あれ』『庵主さんはやっぱり飲む事に尽きますね』

『最後に“香道”。これはお作法ですが、少し覗いておきましょうか』『宜しくお願い致します』『松栄堂の社長様は、“立ち上る香気の異同によって古典的な詩歌や故事、情景を鑑賞する文学性、精神性の高い芸道です。”と教えて下さっています』『我が国独特のものなんですね』

現在では、三條西実隆を開祖とする『御家流』(おいえりゅう)、志野宗信を開祖とする『志野流』が主流になっているそうです。

『庵主さん、以上の様になかなか歴史と伝統が香り立つ香道ですが、そんなに作法に拘らなくっても、お香をたき、それを静かに聞く。そして日頃のストレスを解消する。とっても優雅で、そんなにお金もかからない取って置きの趣味でしょう!』

『流一平先生、今日は有り難うございました。また色々お教え下さった、松栄堂の皆様有り難うございました。早速丁子を放り込んでホットウヰスキーをやりましょうか』『ちょっとお、またそっちですか? お香、お香は一体どうなったんですか?』

『お香はちゃんとお香子(おこうこ・タクアン)として、お酒の肴になっております』ではまたいずれ。


お香の匂いにつられてやってきたオオアオイトトンボ by Jun 

 

2011年9月29日木曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・言葉のアーカイブス <標高147m>

【流一平さんと京の老舗を訪ねる旅】




お香を聞く 香老舗 京都烏丸二条 松栄堂・その二

今日は香老舗、『松栄堂』さんにやってまいりました。と言ってもいつもの私のパターン、庵主風に言うと『京都烏丸二条へ来た想定』で進めて見たいのです。いわゆる仮想インタビューというものです。創業宝永2年と云いますから今から300年も昔の事であります。平成17年に『松栄堂』さんは創業300年の記念すべき年を迎えられたのであります。京都の老舗ならではの伝統ある会社なんですね。

今日は私の友人であります、『お香おたく』の流一平(ながれいっぺい)さんに同行願い京都烏丸二条にやってまいりました。周辺の水辺にはカキツバタが咲きだし、古都の初夏の風情を一層色艶やかにしています。

『今日はご苦労様です。ところで一平さんはお香歴、もう長いのですか?』『そうですね、かれこれ30年になりますか』『へえ〜、すごいですね』『そんなに手間の掛かるものでもないですから、毎日気楽にやっていますよ』

『さてやって来ましたね。ここは本店が京都。産寧坂、銀座、人形町、札幌、青山香房などに支店があるのですね』『日本人のお香についての感性は殊の外豊かで深いものがあるようで、各地に出店があるのがわかりますね』

『お香と一口に言っても、色んな素材があると思いますが、ちょっと教えて頂けませんか』『ええ、それでは松栄堂のお店の方に伺っていますのでご説明致しましょう』

『お香の原料としては、数十種類あるそうです。なかなか入手困難なものも少なくないようですよ』『そんなに沢山あるのですか?』『香木のうち代表的なものは、沈香“ぢんこう”、伽羅“きゃら”、白檀“びゃくだん”が挙げられますね』『それらの原産地はどこいらへんですか?』『そうですね、主として東南アジアでしょう。ベトナムやインド、インドネシア、マレーシアそれに中国などでしょう』『それでは、今度は草根木皮については如何でしょうか?』

『桂皮“けいひ・シナモン”、大茴香“だいういきょう・スターアニス”、丁子“ちょうじ・クローブ”、安息香“あんそくこうのき・エゴノキ科”、乳香“にゅうこうじゅ・カンラン科”、竜脳“りゅうのうじゅ・フタバガキ科”などがあります。これらの内には、アフリカやアラビア海沿岸部などで採れるものもあります』『全世界から集まってくるのですね、ほんと驚きました』  (明日に続きます)




日本の灯りのともる部屋で お香を聞きます Imagined by Jun

2011年9月28日水曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・言葉のアーカイブス <標高146m>

【流一平さんと京の老舗を訪ねる旅】


お香を聞く 香老舗 京都烏丸二条 松栄堂・その一

私は以前よりお香を部屋でたいております。お香は、かぐとか、におうとは言わないで『聞く』と表現致します。いつぞや丹波のお寺に参じたおり、大きなご本堂に微かに香っていた『白檀の香り』に魅せられたのがお香との出会いでした。

お香にも色んな種類があり、価格もピンからキリまで千差万別です。私はそんなに高価なものを所望はしません。お部屋が清浄になって、瞑想が出来る、所謂α波が出る環境にしておけば良いのです。

先日買い求めましたのは、香老舗『松栄堂』さんの『旬』であります。春夏秋冬、『旬』の香りに『青春、朱夏、白秋、玄冬』を織りまぜてそれぞれに心を和ませ、波動の乱れを癒してくれる秀れものであります。

小さな六角形の和紙でしつらえた香箱に、それぞれの香りが封じ込められてあります。この箱が側にあるだけで安らかな心になっていくのを感じるのです。

さて松栄堂さんのホームページから『お香の雑学』を覗いてみましょう。(一部編集:庵主)

わが国で初めて『香』を用いるようになったのは、仏教伝来時といいますから、538年ころでしょうか。『日本書紀』には、推古天皇3年(595年)4月に、一抱えもある大きな沈水香木が淡路島に漂着し、島人がそれと知らずかまどに入れて薪とともに燃やしたところ、その煙が遠くまで薫り、これを不思議なこととしてこの木を朝廷に献上した、と記されています。今から1,412年(当時)も前の事であります。

奈良時代(710〜)には、仏前を清め、邪気を祓い、厳かな雰囲気をだす、『供香』として用いられます。平安時代(794〜)には、衣服に香をたき込め、そこに移った香りを楽しむ『移香』や『追風』『誰が袖』、部屋に香りをくゆらす『空薫』(そらだき)などの優雅な習慣が日常生活に組み込まれていきました。

鎌倉時代(1192〜)には、出陣に際しては沈香の香りを聞いて心を鎮め精神を統一させたり、甲冑に香をたき込めて戦に臨んだとも云われております。そして室町時代(1338〜)になって足利義政のもとで、文化人の手によって、『六国五味』(りっこくごみ)といわれる香木の判定法や組香が体系化されます。


そして江戸時代(1603〜)になって香りの文化はそれを味わうための香道具の製作などに花開き、庶民の間にも香道が浸透していきました。そして中国南部より開港場であった堺・長崎にお線香の製造技術が入り、庶民に普及していきます。

その後、時代の変遷にともない、現代の日本人の暮らしにあった新しい香りの開発を続け、さらに新しい歴史を刻みつつあるのです。(京都松栄堂、お香の雑学より)


次回に続きます、 流一平さんの登場です。 Imagined by Jun

2011年9月27日火曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・言葉のアーカイブス <標高145m>

【吉田絃二郎と歩く四国新居浜の旅】


絃二郎は「一宮神社」を出て浜に向かっている。『入江には潮が満ちて来た。提燈を点しつらねた船が川上から島の方へ漕ぎつれてゆく。三味線を弾き、鼓を打つ妓たちが、客と共に唄ふ。最初はかなり騒々しくもあり、不愉快である。しかし夜が更け、星が輝き、波の音までも静まるころ、水を隔てて遠い舷の歌を聴くのは何となく水郷の秋の夜の哀愁をそそられる』と、その夜の光景を残している。

彼は今日の地番では大江の浜か、雑魚場辺りの宿(現住友化学周辺)に逗留したようである。ただここにある「島」がどこを指すのか。かすかに見える「大島」の事だろうか?よく分からない。

今ではこの様な悠長な逗留はちょっと考えられない。まして提燈を点しつらねた船が川上から・・・と言った光景は見られない。現在町の真ん中に「昭和通り」がある。商店街である。昭和6年に完成したから「昭和通り」と名付けられたが、絃二郎が訪ねた頃はさぞ賑やかなことだったろう。

どうやらこの辺りの文章を読むと、彼は男の快楽の為に金で買われる妓らの哀れを綴っている。ちなみに絃二郎はクリスチャンであった。さすればこの辺りは当時、花街・色町だったのだろうか。彼は続けてこう書いている。



『夜が明け切れぬうちに男たちは窓の直ぐ下にもやはれた小舟から沖の方へ帰ってゆく。男たちはたいてい内海通ひの汽船の船乗りである。・・・浜に立って客を送る女の姿も見られぬ。』男と女の金銭だけの繋がりの哀れさを思はせる。

彼はその朝、黒い檻に取りかこまれた屠牛場へ曳かれて行く牛に出会っている。そして彼の人生観のような記述がある。『殺されにゆく牛を見るのはほんとうに不愉快である。トルストイでなくとも屠牛場に曳かれてゆく牛を見ると耐られない気持ちになる。』

そしてこう続けて言ふ。『しかし魚が魚を食ひ獣が獣を食ひ合っている自然を見ると、互いに殺し合ふことが生けるものの悲しい宿命であるやうに思はれる。殺すものも、殺されるものも共に悲しい宿命である。一人の人間が生きてゆくために幾人かの人間が殺されつつある。不知不識(しらずしらず)の間に私たちは隣人を殺しつつある。世に一人の義人あるなし。それが人間の宿命ではないか。』

その朝、絃二郎は浜に出ている。そしてこう記している。『浜には石風呂というのがある。アーチ型に石を畳み上げて、柴を焚いた上に、水に濡らした筵(むしろ)を展べて、襤褸(ぼろ)のどてらを着て人々は転がっている。焦熱地獄である。風呂を出て冷たい水を浴びた後の心持ちは何とも言えぬさうである。白い砂浜を絶えず村の人たちは石風呂の方へ歩いてゆく。』

この描写を読んで思い出した事がある、私が勤務していた「新居浜工場」から歩いて300メートルほど海の方に行った所に小さな川に架かった橋があった。そこらは沢津町松の木といった。その橋の名前が「石風呂橋」であった。今から75年ほど昔、確かにその辺りに吉田絃二郎が見た「石風呂」があったのだろう。そこは現在、「沢津漁港」になっている。毎朝、魚屋や寿司屋の男達が新鮮な魚を買いに朝早くから訪れる。おしろいの匂う、妓の姿は見えよう筈もない。

その日彼は新居浜を出て、香川の金比羅宮に詣でている。讃岐富士の優雅な姿に感動し、四国の旅の疲れを癒すため、帰途京都に降り立ちている。

そして『京都では アカシヤの木も 秋の風』の俳句を残している。

(吉田絃二郎と歩く四国新居浜の旅はこれにておしまい。次回は流一平さんと京都の老舗を訪ねる旅です。どうぞお立ち寄り下さい)

2011年9月26日月曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・言葉のアーカイブス <標高144m>

【吉田絃二郎と歩く四国新居浜の旅】




私の最も愛すべき随想作家というのか、紀行作家と称する方が正しいのかはよく分からないが、彼の文章に出会って初めて、日本人の心の深淵に触れた気持がした。

彼は「旅」について昭和10年頃この様に書き残している。『旅はわたしにとって或る時は人生遍路の精舎でもあり、或る時は未知の世界への欣求でもある。わたしは旅に出るたんびに寂しい気持ちにもなる。かつて一度だってよろこび勇んで家を出たことはない。旅にでることは何となく心細い。頼りない。・・

旅は生死を賭けての門出である。“野ざらしを心に風のしむ身かな”といふ芭蕉翁の心がまへはまたすべての旅人のそれでなければならぬ』と。


絃二郎の描く日本の風景は、今では既に見られなくなったものばかりである。叙情優しく・懐かしい故郷への行脚はまるで彼をして托鉢の僧かと思わせるものがある。もう見ることも手にすることも少なくなってしまった、戦前の古書を紐解きながら75年前の人々と日本の原風景の有り様に触れてみたい。

私は平成15年の夏、四国愛媛県新居浜市に転勤を命ぜられた。これが約40年間に及んだ我がサラリーマン生活の最終章だと思って心新たに赴任したのであった。

JR新居浜駅に降り立ちてまず驚いた。その頃の駅前通りは何もないと表現しても良いほどの殺風景なものであった。ロータリーがあって古い食堂、自転車預かり所、交番、塾、あと小さなビジネスホテルが二つほど建っていただけだった。

今日では駅前開発事業により相当開けたように思うが、それでもJRに市の名前が冠された駅前の賑やかさはここには見られない。まして絃二郎が訪ねた、昭和10年頃はもっと閑散としていたのは間違いない。

『浜では祭りの夜であった。』と書いているから、新居浜は秋の太鼓祭りの真っ最中だったのだろう。十月の中旬、新居浜では町をあげての祭りだ。もう町全体が太鼓祭りの熱いうねりの中に溶け込んで行くかのようである。

私も赴任したその年、祭りの太鼓台の「かき夫」として3日間祭り三昧の日をおくった。飲み、担ぎ、そして定番の太鼓台同士の喧嘩。これが新居浜人の最高の楽しみでもあるのだ。

絃二郎は駅を出てすぐ徒歩で30分の「一宮神社(いっくじんじゃ)」を訪ねている。『禊ぎであろう。径八九尺もあろうと思はれるほどの新しい藁の輪が宮の前にしつらへてある。人々は藁の輪をくぐっては拝殿のまえにぬかづく。』と記している。今日もそんな藁の輪があるのだろうか? 一度知人に聞いてみたいものである。

現在の町の様子は、駅の東に「国領川」が南から北へと流れている。普段はほとんど水が流れていないこの川も、一端大雨が降ると、その様子は一変する。私は単身赴任の頃、その川添いに住んでいた。100年に一度の新居浜風水害に遭遇した夜、大きな岩や、流木がゴウと流れてきて凄まじい音を立てた。一晩中まんじりともせず、川の堤でその様子を見ていた。

あのような時に『川を見に出た男性、流され行方不明』との記事になるのであろう。それでも水のエネルギーを見るのが殊の外好きな私であった。その習性は今日でも変わらない。

(次回へ続きます)


 赤と白の彼岸花が秋祭りを一層興奮させてくれた Imagined  by Jun

2011年9月25日日曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・妙高高原の秋 <標高143m>

【秋の虫たち】


キリギリスの仲間:サトクマダキモドキ


マダラカマドウマ(1)


マダラカマドウマ(2)

珍しい秋の虫たちが、つかの間の休息をとっています。来月にも訪れるかも知れない初雪まで生きているでしょうか? 彼らの寿命は一部の虫を除いて、2ヶ月〜4ヶ月だと思います。さあ、あともう少し、日本の秋の脇役で頑張ってください。

2011年9月24日土曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・妙高高原の秋 <標高142m>

【雨の後に出たハタケシメジ 柴栗も】


台風15号が去った昨日、ご近所の方がこの秋最初のキノコを収穫してご持参下さった。お宅の庭に生えた「ハタケシメジ」とのこと。早速すまし汁に浮かしての「食味倶楽部」。良い香りがする歯ごたえのあるキノコでした。

栗は小粒の「柴栗」です。風が大きな栗の木を揺すったのでしょう。草むらに沢山落ちています。ボクも拾わせて貰いました。これから11月にかけて山の恵みが出てくるでしょう。毎日が楽しみです。今日は畑に行って「野沢菜」の間引き作業と、間引き「壬生菜」の植え替えです。

2011年9月23日金曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・画廊 馬岩(バロック) <標高141m>

【絵手紙との出会い】


今朝はボクの親しい知人、S女史の作品を、画廊 馬岩(バロック)に展示させていただきました。先日畑で獲れた「モロッコインゲン」をお送りしたのですが、それを絵手紙に描いてのお便り。こちらこそ「嬉しい嬉しい思いやり便」ですよ。

台風が行ってしまったというのに、まだ大雨警報などが出ています。今年はかつてないほどの災害多発年です。1月の新燃岳の噴火、3月の東日本大震災の津波と福島原発の水素爆発、放射能問題、そして台風12号・15号による風水害など。

なんとか前向きに明るい気持でこの秋を迎えたい。そんななかに一枚の絵手紙で癒された「心の静謐」。感謝申し上げます、有り難うございました。



2011年9月22日木曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・言葉のアーカイブス <標高140m>


時刻表 JR全線版を使って旅に出よう!【庵主の草枕・夢旅日記】

 番外編・怖いかシリーズ (その二) 女は怖いか?



『さあ、何を頼もうか、君は何が好きなんだ』『常務さんにお任せします』と言う。テーブルのベルを押したら店員がやってきた。『ビール中瓶を2本、熱燗1本』『シングルですか、それともダブルでしょうか?』と絣の女性。『ダブル、熱めに。それとカレイの煮付け、だし巻き玉子、ハムサラダ、明石焼き、そして野沢菜漬け物。以上』。

彼女がクスクス笑っています。『何がおかしいんや?』『だって、子供の好きそうなものばっかり』『これでも気を使てんねやで』と私。そうこうするうちにビールが運ばれてきました。

彼女がグラスを並べて、『じゃあ、お注ぎします、常務様』『ここでは、役職抜きだ!』『じゃあ、オー様どうぞ』なんとも男を上手くあしらう女性であります。

私が彼女のグラスにビールを注ぐ。『お疲れ様、では』といってグラスを合わせました。二人は冷たいビールを一気に喉の奥に流し込んだ。久しぶりの居酒屋。ほっとする時間が流れていく。

『オー様、タイのお話し聞かせて下さらない?』『タイの話か、ほな酒でも飲みながら話すとしょうか』。私が仕事でタイへ出張したのは、三週間ほど前の事だった。往復の航空チケットなど必要な物はすべて彼女が全て用意してくれたのだった。

私どもの製品を買ってもらっていた関係で、大手企業の現地工場見学と今後の納入打ち合わせなども兼ねていました。

『お疲れになりませんでした?』『とにかく、暑かったからな。それに生水が飲めないのがきつかったな』『それでビールばかり飲んでおられた?』『見えとったんか。その通りや、ははは・・』

『お熱いところどうぞ!』と二合徳利を両手で持って注いでくれる。

『あちらではどこに行きはったん』『パレスに行ったよ。それと夜のデイスコにもな』『踊らはったんですか?』『あほ言うな。踊ったんはMr.S や』

『そやけどな、デイスコの踊り子は全くのスッポンポンやで、あれには吃驚したでほんま』『鼻の下伸ばして、いややわ、オー様!』『痛ああ〜!ひねりないな、あざ出けたらやっかいやで』

まあこんなたわいもない会話を交わしながら、久しぶりに若い女性との楽しい時間が過ぎていったのです。

その日からもう4年(当時)が過ぎました。その後私は大阪から愛媛県新居浜に転勤になりました。そして何度か現地工場の若手と一緒に飲みに行く機会があったのです。これからお話しするのは、ある秋の、月の綺麗な夜だったと覚えています。

その日は知人が洒落た割烹を開店したと言うので、みんなで集まってお祝いの飲み会が催されたのです。会が盛り上がってお酒が結構まわった頃、ある一人の女性がこんな事を言ったのです。

『元常務さん』『ええ、わしの事か?』『そうですよ。常務さんは以前、大阪のS嬢と親しくされていました?』『なんや、藪から棒に。わしはこの通り、みんなに親しいんやで。知っとるやろ』『ほんとお〜? でもS嬢には、と・く・べ・つ、でしょ!』

『そんな事あるかいな』『でも一緒にお風呂屋さんに行ったんでしょう』その時私はその意味が全く理解できませんでした。そう言った女性はS嬢と仲が良かったのです。女性二人連れでよく旅行などにも行ったらしいのです。

私はハッとしました。そこは『風呂屋・銭湯』ではなく『ゆ』の暖簾のかかった居酒屋であった事。まさに大阪人の洒落がこしらえたお店でした。それをどこでどう間違えたのか、本当の『風呂』、『温泉』に行って一緒にそこに入った事になっているらしいのです。

その時私は、敢えて釈明も説明もしませんでした。どうころんでも信じてもらえないと思ったからです。こんな事なら、本当に『温泉』にでも行ってた方がよかったのだと今でも思っております(問題発言)。それはもう10年も前のほろ苦い思い出でした。やっぱり女性は怖いものであります、いやほんま。ではまた。


 ミョウコウトリカブトの花 Imagined by Jun

2011年9月21日水曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・言葉のアーカイブス <標高139m>

時刻表 JR全線版を使って旅に出よう!【庵主の草枕・夢旅日記】

 番外編・怖いかシリーズ (その一) 女は怖いか?

湖西から若狭路を旅してきました。福井県敦賀市を散策したあと、実はある場所を訪ねたのです。そのご報告を忘れておりました。山陽路の旅を始める前に一通りの顛末について記しておきましょう。 それは武生市であります。敦賀市から福井市へ抜けていく間にある町武生。海岸線が美しい越前の市の一つでありました。2005年10月1日をもって、武生市と今立郡今立町が合併して『越前市』になったのです。




さてこの旧武生市出身のある女性の話であります。彼女は私の関係しておりました会社に勤務しておりました。もとは大手の銀行のカウンター嬢として支店の顔でもあったのです。私が会社に勤務しておりました時は、総務課にいて社員のお世話係のような仕事に加えて、経理の事務も担当していました。心の優しい聡明な美人でした。

さてある日の夕刻、私が仕事を終えて地下鉄の駅に着いたときの事、彼女が突然声をかけてきたのです。

『常務、お帰りですか? お家はどちらですの』『阪急沿線だ。T市だよ』『じゃあ、私とは反対ね』『君は?』『天王寺方面、まだそこから乗り換えです』

そう言ってクスっと笑った。そこには会社で見る彼女の姿とは全く違ったキュートな感じの女性がいたのです。『君、時間は大丈夫かね?』『時間って?』『お茶でもどうかと思ってさ』『良いんですか?嬉しい〜!』そう言って手を胸のところに組んで首をすくめて顔を振った。

地下鉄を本町で下車。地下道を通って、とある店の前に着いた。そこにはこんな暖簾が掛かっています。『ゆ』・・・。

『ええ〜っ、ここお風呂屋さん?私困ります』不安そうに私を見上げた。私はそのまま暖簾を分けて中に入ったのです。正面には下足入れが設えられています。昔の銭湯にあった、木製の下足用鍵の付いた下駄箱なのです。

彼女も後ろから付いてきています。私は15番の扉を開けて靴を入れました。手にどっしりとした木製の下足札が握られています。彼女はお隣の16番。ガラス障子の戸を開けて中に入ると、少し薄暗いが、カウンターがあります。

『いらっしゃいませ、何名様でしょうか?』と、かすりのモンペをはいた若い女性が声を掛けてきました。『2名です』『掘り炬燵テーブルで宜しゅうございますか?』『それが有り難いな』と答えると、係の女性は後ろも見ずに、小走りに前を行きます。

私達は部屋の奧にある静かなテーブルに案内されました。手荷物を隅に置いて、早速掘りごたつに足を入れて座ったのでした。

『ははは・・驚いたろう』『いやですわ、てっきりお風呂屋さんかと思っちゃった』と屈託無く笑う彼女にの顔には、まだ少女のような面影が見え隠れしている。

(次回に続きます。お楽しみに)




2011年9月20日火曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・妙高高原の秋 <標高138m>

【キアゲハと野アザミ】



久しぶりの晴天の下、杉野沢を歩いた。野アザミが咲いて定番のキアゲハが吸蜜しています。このチョウの美しい紋様には目を見張ります。そろそろ彼らもこの田園より姿を消すでしょう。今朝、外は台風15号の影響でしょうか、冷たい雨が降っています。

外気温度も18度、これではチョウもトンボも飛びはしないでしょう。そして雨の草むらでひっそりと眠りにつくでしょう。

2011年9月19日月曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・妙高高原の秋 <標高137m>

【高き空の彼方に】


昨日は久しぶりに青空が広がりました。上昇気流に乗って鳶(トンビ)が二羽、ピンヨロ〜、ぴ〜よる〜ううと鳴きながら大きな円を描いて下界を眺めています。

雨模様の朝が明けました。台風の余波でしょうか、森の木々もざわついております。そんな中お隣の老婦人が急遽大阪にお帰りになりました。お兄さんのご容体が気がかりだとか。道中のご無事を祈りました。

2011年9月18日日曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・妙高高原の秋 <標高136m>

【ムカゴご飯】


ここ数日林の中を歩きながらこの「ムカゴ」を採っています。言わずと知れた「自然薯いも」の蔓に付いた「芋の子」です。早速「ムカゴご飯」を炊いていただきました。モチモチしてとっても美味しい秋の味でした。

沢山採れましたので、今日はムカゴを茹でて薄塩をかけてよく冷えたビールのつまみにしましょう。栄養満点、健康食品として自然があたえてくれた食材でした。11月頃まで収穫できるでしょう。大きいムカゴのなる蔓は、ボクだけの秘密ではありますが・・・

2011年9月17日土曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・妙高高原の秋 <標高135m>

【渓流にかかる木の枝に憩うモリアオガエル】


                                                                                                              by Jun

清渕川に張り出している木の上に、一匹の大きなカエルが座っています。全体が緑色、腹部はシロクロの鮫肌風。堂々としたその風貌は、まるで座禅をしている僧侶の様。双眼鏡でじっくりと観察してみました。長い手と足、大きな口と飛び出た目。腰骨が突出しているのは、夏やせ気味かも知れない。

これからしっかりと獲物を捕って、太って冬眠するのだろうか?飼ってみたい衝動にかられましたが、「やはり野におけレンゲ草」とあきらめました。

2011年9月16日金曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・妙高高原の秋 <標高134m>

【この美しい花の名 そはトリカブト(山鳥兜)】


トリカブトと聞けば誰しもピンと来るのは、1986年に発生した殺人事件かもしれませんね。この植物、日本三大有毒植物の一つなのです。ドクゼリ、ドクウツギは「毒」と頭に付いていますので危険だと判ります。青紫の花の美しさに見とれてしまいます。どこか清楚な「ラン」の一種かなと思うのも私だけではありますまい。

キンポウゲ科の植物で日本には30種もの仲間がいるそうですよ。妙高高原でも林の中の陽当たりの良い場所に自生しています。高原に咲くのは正式には「ヤマトリカブト」と言うのです。ちなみにこの毒性の強さは、根っこを一囓(かじ)りしただけで大人が死に至るレベルです。

2011年9月15日木曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・妙高高原の秋 <標高133m>


【まぼろしの人面カメムシ】



こうしてドラマの幕が開きます Imagined by Jun

9月14日(水)朝、周辺の雑木林を歩いていたら異様な虫を発見しました。ドクダミの葉にとまっているのはカメムシの一種です。その背中を見て魂消(たまげ)たのです。

かつて山の知人が話してくれた【人面カメムシ】そのものだったからです。女性の顔、それも南米のアンデス地方の女性に見えるのです。友人曰く『そのカメムシに会ったら、近いうちにべっぴんさんに出会うよ。オレの場合は今の女房だったんだぜ』。

はたして彼の預言は当たるのでしょうか?都市伝説ならぬ「高原伝説」の一つかも知れません。


昔からよく「虫の知らせ」とか「虫の良い話」なんて言いますよね。

2011年9月14日水曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・妙高高原の秋 <標高132m>



大文字草の花が咲きました。高原の秋はまことに爽やかで、癒しの風景は立ち止まったところ、そこここにあるのです。


ウッドチップの小径に出てきたニホンアカガエルです。跳躍能力に長じていて、1mくらい平気で跳びます。目が綺麗なイケメンカエルですよ。

2011年9月13日火曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・言葉のアーカイブス <標高131m>


時刻表 JR全線版を使って旅に出よう!

【庵主の草枕・夢旅日記(八)】





展望大浴場は一枚ガラスの内側より下界全望が眺められるような設計でありました。よく暖まるまことに結構な風呂を出た私は、夕食を食べるべく館内割烹『若狭』に出向きました。

食の楽しみは、『若狭ふぐと越前カニ』のフルコース。一人で来るにはちょっと贅沢と言うもの。とは言え、一緒に来る人がいないとなれば、やんぬるかなであります。ただ私に付いてくれたウエイトレスの方が若くて美人だったのは嬉しい事ではありました。

色白で、ちょっと小柄でふっくら美人。まさにここの温泉にいつも入っている女性の証明でもありました。お酒を進めても決して口にしません。仕事中の飲酒は御法度だそうで。う〜ん、残念!!

最上階に海上遥か彼方まで見渡せる素晴らしいナイトクラブがあるのです。その一席に深々と座り、静かな中で夜景を楽しむことにしました。

敦賀湾を行く漁船の灯が細い光の筋となって、遠くの波間に見え隠れしています。敦賀半島から、武生市あたりまでチラチラと町の灯りが明滅しているのを見る事ができるのです。

今宵は私にとっては珍しく、コニャックなどを飲んでいます、この雰囲気の中では、酒や焼酎はどうも場違いのような気がして、そうなっただけです。今夜は客が比較的少ないように感じました。

私の席から少し離れたところで、テーブルライトに浮かび上がる一人の女性。彼女もブランデーグラスを傾けている。細い指の間にロングサイズのイブサンローランの煙が揺れています。一人旅でしょうか?傷心の流れ旅にでたうら若き女性一人なのでしょうか。北陸路の早春の夜をどんな気持ちで過ごしているのかと、勝手に想像を巡らせています。明日はまた、風に押されて北へ流れるのでしょうか。とりとめのない推測が夜のラウンジの薄明かりの中で、ひときはイメージアップされてくるのでした。

そういう私も『草枕・夢旅』の身であります。男と女の違いはあっても同じ事でありましょう。人生の出会いは、まさにバイチャンス(偶然)の成り行き次第だとも言えるのです。あの時思い切って掛けた一声が、今、共に老後をおくる二人になる事だってあるのです。

そんな幻想に駆られながら、優しく縺れた時間が流れて行くのです。ふと我に返った時そこには、さっきまでいたはずの女性の姿がなかったのです。席を立つ気配もありませんでした。私の横を通らずに出て行く事は出来ないはずです。

不思議だ・・・。私が見ていたのは『夢・幻』だったのでしょうか?彼女の座っていた席に、人のいた気配すらないのです。人生とはまさしくそんなものなんだと自分に言い聞かせて再び夜の湾内に目を転じました。

大きな一枚ガラスの中に一人の女性が浮かんでいるのが見えています。先ほどの女性ではありません。ああ、その人こそ私の永遠の恋人『祇乃』の姿か、それとも菜の花畑に消えていった『菜々子』の後ろ姿なのでしょうか?若狭路、敦賀の夜は忘れられない思い出を残しながら、濃密な時を刻んで、夜の静寂の中に溶け込んで行くのでした。

これで『庵主の草枕・夢旅日記』第一部を終了致します。次回は体調を整えて、岡山、広島、愛媛あたりを旅したいと考えています。また懲りずにお付き合いのほど、お願い申し上げます。有り難うございました。


遠くの灯が揺れています グラスの酒に酔えない今宵 Imagined by Jun


2011年9月12日月曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・言葉のアーカイブス <標高130m>


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【庵主の草枕・夢旅日記(七)】



さて蓬菜町の『定吉』をでた私は、また想像の世界で敦賀の町の散策を開始致しました。明治維新を目前にして処刑場の露と消えた水戸烈士達。武田耕雲斎率いる水戸天狗党の烈士三百数十名のことを記しておきましょう。

尊皇攘夷を旗印に挙兵。京の朝廷に自分達の志を訴えんが為に京都へ上がる途中、時は1864年、今を去ること143年前(当時)ここ敦賀の地で捕らえられ幕府によって翌年、来迎寺(松原)にて三百五十三人が斬首されました。

その水戸天狗党の首領、武田耕雲斎等の墓が、松原神社内に安置されています。毎年10月10日には鎮魂の例祭が行われているそうです。時代の流れの中で主義主張の違いから、心ならずも異国の地に魂魄を留めなければならなかった大和男子の冥福を祈る私でありました。

さてこの後は『気比の松原』に行ってみようと思います。長さ1.5km広さ約40万平方メートルという途方もない広大さ。そこに白砂青松の浜辺が残されているのです。私が数えた訳ではありませんが、なんと驚く無かれ、赤松、黒松合計17,000本が生い茂る日本でも稀有な景勝地であります。長年に亘って数多くの人々の心を込めた自然保護の努力の結晶であります。

ここでは映画の撮影なども行れているようです。ちょっと再現してみましょうか、こんな風にです。

若侍が着流し姿で懐手。小唄の一つも唸りながらの千鳥足。一方千本松原の木の蔭に隠れた怪しげな素浪人五、六人。ゆっくりとした間合いで松の木に身を隠しながら若侍の背後に迫ろうとしている。

月が今しも黒雲に隠れようとしたその時、素浪人の背の高い一人が、鞘をはらって一気に躍り出た。ヤッ!・・トオウ!と胴に切り込むその瞬間、若侍はスッと二尺余り飛び上がった。切り込んだ侍の目が若侍をさがしたその時、くるっと体を捻るやそのままズバッと大上段から『備前長船』の名刀『景清』を振り下ろした。

男の顔面が遠目にも西瓜を割ったように見えた。月に掛かった雲がその光景を闇の中に消してしまった。生暖かい風が血の臭いを運んできた。

などと言ったような世界が出現しても不思議で無いほどの素晴らしいロケーションであります。

庵主も今度は、時代物でも書きましょうか、結構面白いですね。書きながらワクワク、ウズウズしますよ。

さてさて、今夜の宿はどこじゃいな。温泉に入って早く一杯やりたいですね。やって来ましたのは、「海望グランドホテル」(仮称)であります。

ここは北陸トンネルの掘削時に湧き出た温泉であります。高台に位置していますので、入浴しながら市街地や敦賀湾の夜景が見られるのが『売り』であります。

泉質は単純硫黄泉であり、湧出温度は25.2度、それを42度まで湧かしているのです。効能はと申しますと、神経痛、リウマチ、婦人病、皮膚病、それと糖尿病にも効果があるとか。私めとしては、楽しみであります。


高台に建つ豪華なホテル (イメージ画像)by Jun



2011年9月11日日曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・言葉のアーカイブス <標高129m>

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【庵主の草枕・夢旅日記(六)】




三方五湖の周りを、バーチャルで歩いてみました。沢山の水鳥が憩っていてその姿を見ているだけでも心が癒される感じです。春から初夏になると水辺の葦なども薫風にそよぎ一層美しい様相を見せてくれるでしょう。

さてやっとお目当ての『敦賀』の街にやってきました。駅の南側に『木の芽川』が流れ、それが笙の川に合流し敦賀湾に注いでいます。早速街の繁華街をウオーキングしてみましょう。

駅前の噴水広場の前には、若い人達が待ち合わせにそれぞれ集まってきます。駅前通りから本町通りにかけておよそ1.2kmにわたって、『シンボルロード』と名付けられた魅力的な町が広がっています。それは、松本零士氏の『銀河鉄道999』や『宇宙戦艦ヤマト』のストーリー順に再現されたモニュメント(銅像)、キャラクター像27体が並んでいるのです。

どの作品を眺めていても、引き込まれて行くようです。それぞれにストーリーがあるのです。『母との記憶』『限りある命のための戦い』そして『別離』と、まるで私達の人生の軌跡が『シンボルロード』に刻印されているかのようです。

町を散策していましたら、正午を告げる梵鐘がなりました。山裾のお寺が打っているのでしょうか。そう言えば私のお腹もそろそろ何か美味い物がないかと探し求めています。とりあえず港まで行ってみましょう。

市立博物館のある、蓬菜町に行ってみました。ここには、敦賀漁港に揚がる魚の総元締め、敦賀漁協があります。その漁協福祉会館にやってきました。ここは絶好のロケーションで、早速とれとれの魚をいただくことにします。お店は会館の二階にある魚処『定吉』(さだよし)さん。カウンター6席、テーブル2,小上がり4テーブルで、定員30名そこそこの規模のお店です。

ここは、港大橋や魚市場がすぐ前に見える抜群の場所にあります。私は今まで何処に行っても基本的には、海の傍なら漁協が関係しているお店を探します。例えば大阪なら、漁協ビルにあるお寿司屋『ざこば』でしょうね。魚の鮮度はピカ一です。それと「通」がよく来られるお店ですから、味は確かでしょう。

この『定吉』さんも毎朝市場で仕入れる魚は新鮮そのものです。早朝漁から帰ってきた漁師さん達が朝ご飯を食べに来るとか。話に聞きますと、TVや雑誌の取材が結構多くある様で、まあそれを見た方が中京、関西方面からも来て下さる様です。庵主もその一人でありました。


季節のカニなども絶品でしょうね Imagined by Jun

2011年9月10日土曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・言葉のアーカイブス <標高128m>

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【庵主の草枕・夢旅日記(五)】

さて電車は、近江今津を出て近江中条、マキノを経て9:31永原に到着しました。ここ永原駅は、滋賀県伊香郡西浅井町にある湖西線の駅です。

駅舎はJR駅の中では珍しい、ログハウス風の駅舎であります。今年(当時)は暖冬とて雪はありませんが、昨年は大雪でこの駅舎にもしっかりと雪が積もって、まるで信州の山の別荘を訪ねたかの様な錯覚を覚えたと友人が話していました。

私は近江今津の佃煮屋で買った、湖魚の佃煮を取りだしてマホービンの『呉春』をちびちびと飲んでいるのです。この瞬間が『スロー旅』の最高のひとときなのです。いつまでに、どこに行かねばならないといった一切の制約がない生活や旅の心やすさ。

目に見える物、聞くもの全てが新鮮で心の琴線にびんびん響いてくるのです。ふとさきほどお釣りを届けてくれた少女の顔が浮かんできます。酒のグラスをちょっと挙げて、彼女の幸せに乾杯しました。ちょっぴり得も言われぬ恥ずかしさが、酒に混じって体内を駈け巡って行ったのでした。

電車は近江塩津、新疋田を過ぎて今回の旅の目的地、『敦賀』に到着しました。朝9:51分ぴったりです。ここはもう立派な北陸地方、福井県であります。関西から出てしまったのだという思いがしたものです。何か別世界へ入り込んでいくような不思議な感慨にとらわれ、腕組みをして何度かうなずきました。

敦賀の町に降り立つ前に、福井県について少し事前学習しておきたいと思うのです。福井県の西端は、京都府の『舞鶴市』に接している『小浜市』(おばまし)であります。若狭湾国定公園に指定されている風光明媚な観光地です。

高浜町、大飯(おおい)町、そして小浜市若狭町などが全国屈指の美景地、三方五湖を擁しています。私は大学3年生の夏、仲間とともに世久見湾の漁師町、食見、世久見を訪ねたことがあります。夕陽が落ちていく水平線を仲間達と眺めながら、当時流行っていた、『ブルーシャトー』などを歌った思い出が今も昨日のように浮かんできます。

ここで少し三方五湖について書いておきましょう。五湖と言うのだから五つの湖があるのです。その名前は、三方湖、水月湖、久々子湖、菅湖、日向湖の5つです。

万葉集に、若狭なる三方の海の浜清みい往き還らひ見れど飽かぬかも(詠み人知らず)という歌が残されています。はるか昔からその美しい優雅な湖影を住む人々に見せてくれていたのでしょう。

これらは全て海と繋がっています。ただその海水と真水の濃度が違っていますので、そこに棲む生物(主に魚)は色んな相(すがた)を見せています。それだけ豊富な生態系が維持されている貴重な湖であります。

若狭湾国定公園に指定されていて、環境汚染からこの地域を護ろうと多くの人々の努力が重ねられています。

三方湖は完全淡水湖で、鯉、鮒、モロコ、エビ、ワカサギ、ウナギなどが捕れます。水月湖(すいげつこ)は海水と真水が半々の、所謂汽水湖です。魚も海に住むチヌやスズキなども捕れます。

管湖(すがこ)も水月湖と同じ汽水湖です。渡り鳥が多くやってきます。当然鳥類の禁猟区になっています。久々子湖(くぐしこ)も汽水湖ですが、満潮時には日本海から海水が逆流し塩水にもなります。

最後に日向湖(ひるがこ)です。ここは完全な塩水湖で魚類はタコ、クロダイ、ボラ、イワシなどが捕れます。どうですみなさん、こんな素敵な湖が案外近い所にあるのです。春先から初夏にかけて気候の良い時に是非ゆっくりと散策したいものです。



こんな魚がすんでいるのですよ。Imagined by Jun



2011年9月9日金曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・言葉のアーカイブス <標高127m>

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【庵主の草枕・夢旅日記(四)】



近江舞子を8:53分に出た電車は、北小松、近江高島を経て安曇川(あどがわ)に到着。正式には高島市安曇川町である。湖西地方きっての大河である安曇川の三角州に立地しています。

この地の歴史は古く古代大陸系来人、安曇族が栄え、これが安曇川の由来となっているそうです。有名人では、日本陽明学の祖、中江藤樹は安曇川の人であります。といってもこの人の事を知っている人は少ないのではないでしょうか。

町の花は彼にちなんで、『藤』であります。庵主は以前仕事で訪れた際、名品高島虎斑石硯(たかしまこはんすずり)と雲平筆を買いました。

雲平筆は、滋賀県の無形文化財に指定されている藤野雲平氏の手によって制作されています。藤野家系譜によれば、藤野家が筆師となるのが元和年間(1615〜23年)、六代目又六(後に雲平と改名)の時。以後、代々毛筆制作を営み、十三代目雲平(現、雲平氏の父)が関東大震災のため、妻の実家があった安曇川町上小川に移住し、今日に至っています。初代からの伝統を受け継ぎ、毛筆をつくり続けているところが最大の特徴です。芯毛を上質の和紙で巻き固め、さらに上毛をかけて麻で強く締めるという製法をとる巻筆は、腰が強く、弾力に富んでおり、力強い墨線を生む筆として書家に根強い人気があります。現在の十四代目雲平氏に対する評価は高まるばかりで、労働大臣賞受賞(昭和63年)など数々の栄誉に輝いています。(Adogawa Home 2より)

列車は、眼前に広がる美しい湖面を時折展開させながら近江今津に滑り込みました。外では空っ風がうなり声を上げて通り過ぎて行きます。湖面には結構白波が立っているようです。私の耳にさした小さなラヂオ・イヤホンから赤城圭一郎の『霧笛が俺を呼んでいる』が流れています・・・懐かしいな。彼もエデンの東のジェームス・デイーンと同じように若くして事故でこの世を去っています。今でも多くのフアンがいます、実は私もその一人なのです。

あの映画は横浜港が舞台であったのでしょうが、ここ琵琶湖もまるで海のような広大さであります。近江今津もそう言った意味から言うと一つの湊なのですね。

近江今津の駅舎周辺は、近代的なものと昔の街道の古風さが共存していて面白い。今津港は長い桟橋が湖に突き出て船が憩う格好の桟橋である。釣り竿でも出せば、モロコや鮒がすぐにでも釣れそうです。

琵琶湖周航の歌資料館の向かいには、おばあさんが一人で商いをしている餅屋『きねや』があります。ここの大福はまず午前中一杯は残っていないだろうとのことです。即売り切れる人気商品であります。女性と子供には殊の外人気があるのだそうです。だから男性が頼まれて一人で5個、10個と纏めて買って行くのです。

また今津の街道筋のような町並みの中に、湖魚の佃煮を作って売っているお店があります。江戸時代風の町並みの路地裏から、年の頃なら十五、六の少女が走り出てきました。『お客さ〜ん、お釣りお忘れですよ』『ええっ、私ですか?』『さっき佃煮買って頂いたのおじさんでしょ』『ああ、いけないね最近もの忘れがね・・・』『はい、これ』と言って小銭を私の手の平においてくれました。

花の顔(かんばせ)輝いて、香(かぐわ)しい匂いすら感じます。差し出した手の薬指に赤いビーズの指輪がはまっていました。『ありがとうございました、じゃね』と手を振って駆けだしていく後ろ姿に、私の永遠の恋人『祇乃』の面影が重なって揺れました。


山紫水明名も高き・・・Imagined by Jun

2011年9月8日木曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・言葉のアーカイブス <標高126m>

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【庵主の草枕・夢旅日記(三)】

電車は、朝8:52 近江舞子に到着しました。ここから米原までは各駅停車になります。近江舞子は『琵琶湖周航の歌』に歌われている『松は緑に砂白き、雄松が里の乙女子は、赤い椿の森蔭に・・・』で有名な景勝地なのです。ちょっと気持ち途中下車してみませんか?

ここは夏の湖水浴のメッカですね。近江舞子駅周辺には、なんと苺畑が広がっているのです。栽培されている苺は目一杯降り注ぐサンシャインを受けて、大粒でそれは甘いのです。是非一度お試し下さい。『一期一会』と言うじゃありませんか?・・ん?

私ももう少し若ければ、ウインドサーフィンやヨットなどのマリンスポーツを楽しみたいところですがもうこの歳になっては体がついて行きません。

各停に乗って先ほど通過しました志賀駅で下車すれば、バスに乗って15分でびわ湖バレイ・ゴンドラ山麓駅に着きます。ゴンドラは約8分でびわ湖バレイ山頂駅に到着します。そこから汁谷リフトで10分。汁谷よりいよいよ徒歩、約40分で県下三大渓谷の一つ白谷です。近くには、落差35mの滝が二つ仲良く並んでいるではありませんか。

これぞ知る人ぞ知る、夫婦滝であります。大自然が創り出した景観に驚きます。夏でも涼しいここ白谷、一度来られたら如何でしょうか。霊験灼(あらたか)なスポットで恋人同士、夫婦連れも、一層ラブラブになること間違いなしです(ただし個人差はあると思いますが)。

さて今も叙情歌として歌いつがれています『琵琶湖周航の歌』について車中からではありますが、学習させて頂きます。

琵琶湖周航の歌

    作詞  小口  太郎
    原曲  吉田  千秋

1  われは湖の子  さすらいの
      旅にしあれば  しみじみと
      のぼる狭霧や  さざなみの
      志賀の都よ  いざさらば

2  松は緑に  砂白き
      雄松が里の  乙女子は
      赤い椿の  森蔭に
      はかない恋に  泣くとかや

3  浪のまにまに  漂えば
      赤い泊火  なつかしみ
      行方定めぬ  浪枕
      今日は今津か  長浜か

4  瑠璃の花園  珊瑚の宮
      古い伝えの  竹生島
      仏の御手に  いだかれて
      ねむれ乙女子  やすらけく

まだ6番までありますが、省略させて頂きます。この歌の誕生は、大正6年と言いますから今からざっと、91年前(当時)になります。その年の6月、第三高等学校(現京都大学)二部クルーは学年末の慣例によって、琵琶湖周航に出ていました。

小口太郎ら一行は大津の三保ケ崎を漕ぎ出でて、1日目は雄松(志賀町近江舞子)に泊まり、2日目の6月28日は、今津の湖岸の宿で、疲れをとっていました。その夜、クルーのひとりが『小口がこんな歌をつくった』と同行の漕友に披露し、彼らはその詞を、当時彼らの間で流行していた歌の節に乗せるとよく合ったので、喜んで合唱したということです。『琵琶湖周航の歌』誕生の瞬間でした。(高島市役所サイトマップより)

絣の着物に袴姿、三校の学生帽を被った紅顔可憐な美少年達の青春の歌声が聞こえてくるようです。『バンカラ学生』達の束の間の青春でした。彼らの多くは第一次世界大戦、そして昭和の戦雲のなかで哀しくも散華したのでした。