2013年12月10日火曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・花一輪 恋の笹舟 <標高 819 m >



花一輪・恋の笹舟(三十二)

集諦(じつたい)・渇(かわ)く

順心はあの大雪の夜を越えてからは、心の中に今までとは違った萌えあがるような何かが住みついたような確かさを感じていました。人生に対する考え方が、これまでの自分と御仏といった繋がりの中にもう一人、いつも女人の姿をした観世音菩薩、春禰尼(しゅんでいに)がそこにはいたからである。

春禰尼もまた、それまでのたった一人の寂夢庵での生活から今では、心の内が少し軽くなったのを感じていた。それも順心と共に「夜とぎ(通夜)」をしたあの雪の夜が、心の傷痕を癒してくれたのを感じて、五十歳(いそとせ)の躰(からだ)の中に揺らめいて小さく燃える炎を感じる日がこれも増えた気がしていた。

丹波篠山の地にも、早春の草花が芽吹く季節になっていました。そばの小川にも芹が萌えだし、気の早い草ひばりの歌う声も聞こえて、自然は明るい弥生三月を迎えていました。順心はこの季節になると、毎年あることを思い出し、その場所に出向いていくのが常でありました。

それは今から30年ほど前のことです。ここ久遠実相寺の境内で、小さな五才の女の子、菜々子と出逢ったのでした。今年もまたその少女のことが思い出されて、誰かに背中を押されるようにして、寺を出て川沿いに今も広がる湿地(地元の人はここを“湧水郷”と呼んでいる)に歩みを進めています。早春の草花が、湧き水の中で水晶玉のように輝いています。田畑に流れていく細い溝にはもう小さなオタマジャクシの姿も見えているのです。

菜々子が『お兄ちゃん、あれとって』とせがんだのがまるで昨日のことのように思い出されて、胸が締め付けられる湧水郷の春浅き日の事でありました。

☆  ☆  ☆

【庵主よりの一言】

集諦(じつたい)・渇(かわ)く

 強欲にたとうべき烈(はげ)しき火はなく
 怒りにくらぶべき強き握力はなく
 愚痴(ぐち)になぞらうべき細かき網はなく
 愛欲にまさる疾(はや)き流れはなし

 (法句経 二五一)

「集諦」の「集」とは、苦の起こる諸原因のことです。ここからは「人生の苦の原因」を学びます。「集」すなわち、「ものが集まり起こるための原因」です。

その原因は大きく、渇愛(かつあい)と無常に分けられます。この項次回にてまたお話し致しましょう。

2 件のコメント:

  1. こんばんは、今日はことのほか寒い夜です。深夜の帰宅、少しばかりお訪ねお許しください。

    昨日のアップ写真、懐かしく拝見しました。結婚するまでは祇園界隈に住んでおりました。毎日踊りの稽古に励んだ事など思い出しました…

    久し振りの舞台を終え無事帰京。次のお舞台も頂きました。貴方が運んで下さったご縁です、ありがとうございます。では、また…

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  2. maruru 様

    お早うございます。底冷えのする京都の夜なのでしょう。御舞台まことにお疲れさまでした。とは申せ、ご自分の大切な「ご使命」のごとき踊り、疲れもまた違ったものであるはず。私どもがそう言っては失礼になるのでしょう。青春時代に住まいした街や村は、ことのほか、胸に刻まれた思い出も深いもの。ボクの写真とバーチャル・トリップで、時の旅をして下さり光栄です。

    今朝の妙高高原は積雪20センチ、零下1℃です。今日はこれから直江津まで講演に出かけます。高田瞽女(ごぜ)の文化の残る日本海沿いの港町です。瞽女唄でも聴きながら、雁木通りを歩くのもまた一興。でも直江津も寂しくなりました。新幹線は上越妙高駅にとまるのですが・・・ではまたお元気で、ご安全に。

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