2015年2月11日水曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・【男達の黄昏・・そして今(28)】(標高 1073 m)


【男達の黄昏・・そして今(28)】

 ラジオ体操の歌をみんなで合唱して、NHKラジオの放送に合わせて体操が始まりました。この日は巡回ラジオ体操の日で、北海道知床の近く、斜里からの中継でありました。男は大きく手を振って、体操の先導をしています。今日も暑い一日の灼熱の太陽が燃えながら東の空に昇って行きました。体操が終わって、奥さん連中が男に挨拶をしています。子供達の差し出す出欠カードに『出』の判を押しながら男は会釈をしています。周さんも男の近くに進み、『ご苦労様』と声を掛けました。孫の引率者と思ったのでしょうか?その男は顔を上げて、周さんを見ました。微かに笑ったようでした。目元の優しい中年男性でした。


 そばで小さな男の子がカードを持って待っています。男は優しく頭に手をおいて、腰を屈めてその子に声を掛けました。『おじちゃん、さようなら。』『さようなら、ふうちゃんも車に気をつけるんやで。』男の子は手を振って走って行きました。ラジカセを持つと男はグランドに一礼をして街中へ歩いて行きます。深沢周八はその時、昨夜見た夢がけっして『夢』ではないと確信したのです。『正夢』だと思いました。そして『その男』こそ、『山麓保育園』に来た腹話術の男性であり、沼ちゃんが尾行してきた男であったという事を。

 町の路地裏から一人の女性が現れました。その人は奥さん方の一人の様です。手に小さな布製のバッグを持って、日よけの帽子を被っています。しかしその姿勢は普通の主婦とは違っていました。まるで剣道をするときの腰の座りが見て取れるのです。周八はその時、女性が『天宮真智子』その人だと直感したのです。女性は足早に街中を抜けると『宝沢警察』方面行きのバスに乗りました。

 周八は小さなデジカメを取り出すと、先ほどラジオ体操の最中にそっと写しておいた写真を確認しました。あの男もはっきりと写っています。バスがやってきました。『山麓保育園』行きのバスに乗った時、胸の底から突き上げて来るような感情の高まりを感じていました。それはあの男が、『ふうちゃん』と呼んだ小さな男の子に示した、得も言われぬ優しい眼差しと言葉の響きでした。あの男の過去には、きっとあの『ふうちゃん』に似た子供の存在があるのでしょう。それが見え隠れしていたのをハッキリと周八の心の底には写りこんだのでした。

 この山麓保育園まで登ってくると、空気もなんとなく初秋といった感じがしています。道ばたに萩の花が少し咲き出しています。その葉の上にミヤマアカネが数匹、風に揺れてとまっています。周八は昔、父に連れられて訪ねた芦ノ湖の風景を思い出していました。彼の父は周八が小学生の四年の夏、こじらせた風邪が原因で亡くなったのでした。父の亡くなる少し前に連れて行ってもらったのが、その芦ノ湖だったのです。

 そのような懐かしい思い出を携えながら、深沢周八は山麓保育園の玄関に立っていました。中からアシスタントの谷水洋次が近づいてきます。夏の作業があるようで、彼の顔は真っ黒に日焼けして精悍そのものです。『こんにちは、深沢です。いつぞやはお世話になりました。』『ああ、いらっしゃい。今日はまたなんのご用事で?』『ちょっとお聞きしたい事があって。』『どうぞ中へ、ちょうど休憩時間ですから』。そう言って谷水は周八を談話室に案内しました。

 『今日は園長先生は?』『ああ、紺野は県に出ていって不在です。』『園長先生もお忙しいのですね』。周八はそう言って進められた椅子に腰を下ろしました。『実は折り入ってのご相談と言うのはある男性の事なのです。』『はい、その男性と申されますと?』『ええ、あの以前ここに縫いぐるみを寄贈した・・・』『ああ、腹話術の川上ノボルさんですか?』。子供達を喜ばせようとその男は、大きな「ぼうや」と呼んでいる人形を持ってこの山麓保育園を訪ねている。その時忘れて帰った「黒縁のメガネ」を天宮婦警が借り受けて警察に持ち帰ったが、そこからは指紋の検出は出来なかったのだ。そのメガネは既にこの保育園に戻されています。

 『谷水先生、今日お伺いしたのはですねえ、その男の方がひょっとしてこの山麓保育園となんらかの関わりがあるのではないかと思って。』『何らかの関わりと言われますと?』『例えばこの園に以前子供さんを預けておられたとか・・・』深沢周八はひょっとしてその男性が以前、何らかの事情で自分の子供を預けていたのではないかと思っていました。彼の周辺には女性の影が見えないのです。結婚をして子供が生まれた後、妻が亡くなってしまう。子供を育てる事が難しくなってここに預けたのではと、そんな思いをめぐらせていました。

 そこからの男の人生については何も知らない。だからなかなか推論が進展しないのである。その時谷水がこんな事を言った。『私、先日ある調べ物をしていたのですよ。それはこの度「山麓保育園50年史」を編纂する事になったので。』『その時なにか変わった事でも』。周八は逸る心を抑えてそれとなく訊いた。

2 件のコメント:

  1. ますますミステリーのように深みに進んでいきますね。興味を引き寄せてくれる手法の腕は大したものですね。

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  2. 小川 洋帆 様

    お早うございます。ご愛読いただき感謝申し上げます。
    2/12の朝は好天気で明けました。雪もだいぶん解けてくれるでしょう。
    三寒四温で序々に春に近づいて行くのでしょう。水辺に蕗の薹が顔を出しているのを見つけました。お元気にて日々をお過ごし下さい。祈っています。

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