2012年10月25日木曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・言葉のアーカイブス<標高477m>

日本旅行協会『旅』二月号、昭和七年一月一日発行を読みながら。「バック・トウ・ザ・パースト(時を戻して)」 第  17  

日本旅行協會「旅」、昭和七年二月號より
北信濃泉周遊  別所、田澤、沓掛、戸倉、上山田、平穩七湯

                                          田中 聖二
更に戸倉から汽車で長野に行き、長野電鐵線で信州中野まで行くと有名な平穏の泉郷に近い。平穏は最近山の内泉、と改され、湯田中、安代、渋、上林、地獄谷、發哺、角間の七泉に分たれてゐる。


その中でも湯田中、安代、渋が殊に名があり、遠く東京、大阪、及近在の浴客が集まってゐる。殊に七湯のなかで泉情調の濃いのは湯田中泉で、放浪の俳人一茶でさへが、ーー田中河原と言ふところは、田のくろ或は石のかげよりぬくき湯沸々と出でただいたずらに流れ散りぬ。あはれこのものひとつなりともおらが村里に湧きたらんには地獄にて佛を拜むよりもまさりてよろこばしからましをこの里人はさらに湯とも思はざりけり、句にーー

『雪散るや湧きて捨てある湯のけむり』とおらが郷里の爲に、大に羨んだ揚句、ーー湯のあるところに山陰ながら、糸竹の聲つねにして、老の心もうきたてさながらに仙窟に入りしもかくあらんとゆ、句に『三絃の撥で掃きやる霰かな』と一夜遊んだらしい遊郭があって旅の徒然を紅く彩ってくれる。


湯田中は養の地ではなくて歡場だ。藝者も七八十人ゐるし相當なカフエーもある。此處は他の泉場の玄關口に當り、北方に妙高、戸隠、斑尾、姫の高山が巍然として聳えてゐる。眺望は更に男性的で粗だ。安代、渋は湯田中より自動車の便を借りて更に八丁。他の諸泉は周圍に散在してゐる。泉は鹽類泉と硫黄泉の二種があって慢性レウマチス、婦人病、泌尿病、花柳病、水銀中毒、創傷炎、脚氣に効く。



旅館

湯田中ーー万屋、湯本、大見崎屋等

安 代ーー鹿表閣、山口屋等

渋  ーー金具屋、山本館、つぼたや等



宿料はいづれも二圓から三圓五十錢、尚この泉の特徴は自炊制がが實によく完備してゐる事。それは晩秋頃になると近在の農家から一家をあげて入浴にくる爲に備へたもので一日五十錢位から一圓五十錢位であがるやうに出来てゐるのは便利だ。(昭和7年当時の価格)



名産には湯の花、あけび蔓細工、蕗砂糖漬、凍豆腐、山葡萄、桃、山兎等がある。

<庵主よりの一言>

80年前の紀行文にも紹介されている『渋温泉・金具屋』は現在8代目の歴史を重ねておられ、既に9代目を承け継ぐ西山和樹氏がホームページにおいて「金具屋の歴史」を語っておられます。

少しだけご紹介いたしましょう。『当館は宿屋になる前は、松代藩出入りの鍛冶屋でした。当館の前を通る道は、善光寺と草津を結ぶ草津街道であり、志賀高原の山越えの宿場町として栄えていたのが渋温泉でした。当時の交通手段は馬や徒歩、馬具の整備や蹄鉄を作っておりました。ところが宝暦四年(1754年)、裏山「神明山」が崩れ、渋はほぼ半分が土砂に埋まるという壊滅的な被害を受けます。当館のあった場所も土砂に埋まってしまいました』

『その災害の復旧中に敷地内より温泉が湧出し、それを機に宝暦八年(1758年)に宿屋となりました。前身が鍛冶屋であったため、当時の松代藩主から「金具屋」と命名されたと言うことです。これが金具屋の創業となります。現在の渋温泉が傾斜地になっているのはこの時崩れた土砂の上に街が作り直されたためです』(西山和樹氏)
館は宿屋になる前は松代藩出入の鍛冶屋でした。当館の前を通る道は、善光寺と草津を結ぶ草津街道であり、志賀高原の山越えの宿場町として栄えていたのが渋温泉で

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