2013年9月6日金曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・花一輪 恋の笹舟 <標高 730 m >



【花一輪・恋の笹舟(九)】

仏説摩訶般若波羅蜜多心経

「無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法」

四国に足を踏み入れた順心は、人生で始めて宿屋という所に泊まった。そこは愛媛県西条市の湯之谷であった。ここにはお遍路さんが宿泊する宿が何軒かある。その一つ湯之谷温泉、湯之谷荘がその日の順心の宿になった。

この宿に着いたのはもう日暮れをとおに過ぎていた。四国八十八ヶ所、第六十四番札所の前神寺(まえがみじ)はここの山間にある。明日の早朝、詣でることにした。

順心が通された部屋は、裏が崖に連なっている谷間の鄙びた一角にあった。四畳半一間の小さな、ただ眠るだけの座敷であった。そんな事は百も承知、今回の旅は物見遊山ではない。今は亡き、老院主の生まれ故郷を訪ねる心の旅路でもあったのだ。そっとガラス戸を開けたとき、深い谷の崖の上から滝が流れ落ちているのが見えた。そこは石鎚山に登る修験者たちが、お滝に打たれる修行の場ともなっているのだ。



宿の主人が見えて、挨拶を交わした。少し冷え出したので置き炬燵(こたつ)の準備をしてくれる。主人は順心に温泉に入るようすすめ部屋を出て行った。



主人が去った後、順心は懐から小さな結び文を取りだした。それは旅立の朝、村のはずれで見送ってくれた春禰尼が、懐に入れてくれたものであった。あれからもう四日が経っていた。順心はその間、それを懐の中でじっと暖めていたのだ。この宿に来て今、開いて読む心の余裕が出て来たのである。


宿の主人がすすめてくれたこの温泉は、1400年前の昔から湧き出しているそうである。湯の花が混っていて、少し白濁した湯からは硫黄のにおいが鼻についた。順心は湯に浸かりながらじっと目を閉じて静かに経を唱えた。なんとも熱い湯ではあった。経でも唱えておらねば、じっと浸かっておれなかったからである。

その経を聞いていたお遍路さんが次第に周りに集まってきた。順心の姿・形がまさしく僧であったからだが、その経の響きに自然と吸い寄せられたのであろう。

一年365日、経を唱えない日はない。日々の誦行の積み重ねは、彼の声に不思議な響きを持つ音色となって表れていたのである。経そのものがまた、お遍路さん達が今まで聞いたことのない荘厳な調べであったからかもしれない。

2 件のコメント:

  1.  心清らかな人のお経は心惹かれるものがありますね。特に温泉に入って心がゆったりと開いた時に聴くお経はひときわ心打つものがあるのではないでしょうか。人が周りに集まってくるのは自然の成り行きだと思います。

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  2. 小川 洋帆 様

    お早うございます。僧侶たちが唱えるお経の澄み切った音色こそ、合唱の神髄かもしれませんね。
    温泉の中で聴くことはまず稀でしょうが、もし仮にそんな体験をしたら、一生忘れない心の中の宝物になるでしょうね。

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