2013年9月14日土曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・花一輪 恋の笹舟 <標高 738 m >



【花一輪・恋の笹舟(十一)】

仏説摩訶般若波羅蜜多心経

「無無明、亦無無明尽、乃至無老」


西国八十八ケ札所、第六十四番、石鉄山・前神寺(まえがみじ)は、霊水湧き出でる地、愛媛県西条市州之内に霊峰石鎚山を背にして重厚・荘厳に建立されている。

石鎚山は西日本最高峰(一九八一メートル)の一つであり、七〜八世紀の頃に役小角によって開かれたと伝えられている。山伏の修行場として今日も人々の信仰を広く集めている。

ご詠歌は、『まへはかみ うしろはほとけ ごくらくの よろづのつみを くだくいしづち』である。

弘法大師もこの山には二度お登りになったと伝えられている。山上の石鎚神社は大昔には石土神社と呼ばれ、その後石鎚権現と改め前神寺と一体となっていたが、明治初年の神仏分離によって石鎚神社が独立し、お寺の名前はなくなった。明治十年に鐘楼と大師堂が現在地へ移され、明治二十二年に前神寺の名前になって現在に至っている。


順心は早暁をきして参内した。山門に続く田の畦には燃え盛るような名も知らない赤い花がアチコチに群れ咲いている。一歩一歩、経を唱えながら足を進めていく。鬱蒼とした楠木、槙、楓などが朝の爽やかな空気を惜しげもなく与えてくれている。


山鳥が大きくツバサを広げて山の彼方に飛び去っていく。その羽ばたきの風を切る音が、み仏のお諭しのようにも聞こえている。石段を上がりながら、鉄の輪が付いた手摺りを握りしめる。今まで何万、何十万もの参拝者の手が触れたと思われるその鉄の鎖は、所々が光って見える。



それは祈りつつ足を運んだお遍路さんの心そのままに、朝の光の中で、とりわけて清浄無垢な佇まいそのものである。石鎚山麓の荘厳、森閑とした霊域に大師堂、金比羅堂、お滝不動、薬師堂、そして石鉄権現堂などが秘やかにしずまっている。


☆  ★  ☆

【庵主よりの一言:谷口雅春先生講演記録より】

無無明、亦無無明尽、乃至無老死(むむみょう、やくむむみょうじん、ないしむろうし)


「無無明」というのは、無明(まよい)というものも無いということなのです。それにもう一つ「亦無無明尽」と続けて、無明(まよい)もなければ、無い無明(まよい)だから、無いものは無いのであると、徹底的に「迷い」の存在を否定したのです。

「無明」(むみょう)というのは、「あかるさが無い」と書いてあるのであって、「暗さがある」とは書いていないのです。暗(やみ)それは、「光がない」という「無い状態」にすぎないのであります。

明るい気持ちになったら、迷いや暗黒が消えて、人生楽しく幸福になってくるのであります。

2 件のコメント:

  1.  石槌山は見たことがありませんが、歴史の古い霊山の一つで、日本百名山になる山だと、NHKのテレビ放送で見た事があります。四国に行ってもこの山の見えるところにはなかなか行く機会がありませんでした。然しこのお話でこの霊山を親しみをもって思い出す機会になりました。

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  2. 小川 洋帆 様

    お早うございます。西日本きっての霊山、石槌山。その山容は厳しく、厳冬期は雪に覆われて、人を寄せ付けない、山開きの日まで、山岳信仰を極める山伏達もじっとその時を待つ。

    鎖場(くさりば)に手をかけ、渾身の力を振り絞ってまず一歩を繰り出す。全身の筋肉がうなりと悲鳴をあげる中、確実に足場を確保して45度以上の岩場を登って行く。『南無大師遍照金剛』と声に出して唱える。不思議と体が楽になるのを感じる。
    やっと登りきったそこには、遥か彼方の雲海すら眺められる眺望が開けて、心はまるで泉のごとく澄み切って清浄そのもの。嗚呼 ありがたきかな、それは『同行二人』の真意を知る一瞬だった。

    庵主の体験より

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