2013年10月30日水曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・花一輪 恋の笹舟 <標高 783 m >


花一輪・恋の笹舟(二十二)

仏説摩訶般若波羅蜜多心経

 「羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦」

深く息を吸って陀羅尼を唱え、弘法大師の作と伝えられる御詠歌「阿字の子が阿字の古里立ち出でてまた立ち帰る阿字の古里」を目の前の仏に向かって呼びかけるように称名(とな)えた。

順心は枕経を終えてひとまず席をはずした。そして隣の襖を開けて部屋に入る。そこには村の世話役の人々が控えていた。皆、順心をみて居住まいを正し、深く礼をした。いっぱいの番茶が出される。それを頂いて順心は、中山喜一の方を向いた。

促されるように喜一は少し膝を進めた。そしておスミ婆の死について語り始めた。それはこうであった。

おスミ婆さんは、この丹波篠山にやってくるまでは、兵庫県淡路島にいたらしい。生まれて結婚するまで、淡路島の洲本に住んでいた。父は線香を作る職人をしていた。淡路島は知る人ぞ知る、お香の産地である。

スミが19歳になったとき、父の知り合いの薦めで、丹波篠山の地に輿入れしたのだった。しばらくして戦争が始まった。スミの主人は周りの男達がそうであったように、やがて召集令状がきて夫は出征していった。スミ23歳の秋であった。

夫は大陸から南方に転戦し、ブーゲンビル島で戦死したという。遺骨一つ帰らなかった。白い骨壺の中には小さな石ころと、木片が一つ納められていたと言う。スミは泣くに泣けなかった。というのもその頃は、自分と同じ様な境遇の女性は周りに沢山いたからである。主人と共に過ごした、たった4年の年月。それは余りにも儚く哀しかった。

この山間の辺鄙な地で、ただ田を起こし、畑を耕して50年近くを独りぽっちで生きて来たのである。若くして死に別れた夫の供養こそが、おスミ婆の最も心安まる時間であった。薄れていく亡き夫の面影を探しながら、季節の花々との出会いが、おスミ婆のたった一つの安住の場であったにちがいない。

☆  ☆  ★

【庵主よりの一言】

 羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦(ぎゃてぎゃて、はらぎゃて、はらそうぎゃて)

カーティ、カーティ、パラーカーティ、パラーサンカーティ、と読みます。カーティとは彼岸という意味で、パラーは、到達するとか、行くという意味になります。

サンは比丘、比丘尼すなわちサロモン・サマナーということです。

このような箴言が遺されています。「おのれ今だ渡らざる先に衆生を渡さんと発願修行する者、仏の位に進む者にして・・・」周りの人々をまず彼岸に渡す、そして自分は後から行く。その深い愛の心がその人の格を高め、救いに導かれて行くのでありましょう。

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