2011年2月6日日曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・言葉のアーカイブ <標高23m>

【ヴィオロンとマグネット(慎次郎とロジーナの青春より)2】


二人はやむなく別れねばならなかった。ましてその頃の世情は、外国人と一緒になるなど稀有なことでもあった。最後の夜慎次郎は、銀座のレストランでキャンドルの灯を見つめながら、ロジーナとともにキールにての再会を誓ったのである。

昭和14年の年が暮れようとしていた。戦雲は怪しげにうごめいて、暗い世相が重くのしかかるように感じられる年末であった。翌15年は、「紀元2600年」という国家にとっては奉祝の年である。

年が明けると、数々の奉祝行事が計画されていた。紫野慎次郎にドイツ出張が命ぜられたのは、昭和15年6月、梅雨の晴れ間の午後の事である。その任務は、ドイツの日本大使館で開催される「紀元2600年奉祝行事」の指導という名目である。

その年の1117日、紀元2600年祝賀行事で「挨拶と音楽」をドイツから中継するというものだった。そしてそれらの楽曲を「紀元2600年奉祝交響楽団」が12月中旬に日本国内で演奏する計画が進んでいた。

慎次郎はベルリンの在独大使館に10月初旬に到着している。数週間の後、慎次郎はロジーナとの再会にキール軍港に向かっている。もう冬の足音が近づいているシュレスヴィヒ=ホルシュタイン州・キールであった。

彼の訪ねた町は、キール湾の奥に位置している。北海とバルト海を繋ぐノルト・オストゼー運河の要として海運、造船を中心とした軍港である。この地形的、位置的好条件によってドイツ帝国の戦力の要でもあった。

海軍、ことに潜水艦基地としてその価値は極めて高いものがあった。我が国においては、広島の呉鎮守府のおかれている呉湾に風光が似ていた。紫野慎次郎はこれまでに何度か江田島の海軍兵学校には会議で赴いたことがあった。

昭和1510月下旬のその日、慎次郎とロジーナは、キール入江の東岸を北上して湾口のラボーに向かっている。ラボーハーフェンから近いエーレンマールのビーチにあるホテル、ミノテール・ラベスのラウンジのテーブルに腰掛けていた。

北ドイツ特有の荒れた海、灰色の今にも降り出しそうな空の色。それに引き替えホテルの暖炉に燃える火の色の優しさ。慎次郎は何も言わず、ロジーナのブルーの瞳をじっと見つめていた。


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